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非モテに希望を与えるKizuna AIという物語
#キズナアイ だけじゃない。誰もが #バーチャルYouTuber になる時代。そんな日が近いうちにくるかもしれません。https://t.co/nlmpQT5U07
— NHKニュース (@nhk_news) 2019年1月7日
続いて言及したいのは、ライブに訪れていた観客たちについてだ。実はアイちゃんのライブの客層はいかにもな男オタクも多いものの、中には女性やカップル、イケメンや明らかに体育会系の爽やかグループもそこそこ存在した。めちゃくちゃ美男美女の外国人夫婦までいた(何者?)。
なのでライブの観客を総じて「非モテ」と括るのはいささか無理があるのは確かだ。しかし僕はあえてここで非モテとアイちゃんの関係について考えたい。僕の周りは最近モテる男性が多いのだが、彼らと話していると「非モテとしての自分」が強く意識される。
アイちゃんのライブに行った時、アイちゃんはそんな非モテの僕や「彼ら」にとって、大きな希望になってくれるのではないかと感じたのだ。
非モテの生きづらさについて
非モテは本来生きづらくてしかるべきである。なぜなら人類は子供を産むことで繁栄する生き物であって、非モテのようにセックスアピールのない種は絶えなければならないからだ。おそらく農耕以前の人類史においては非モテの存在意義は皆無だったろう。力が強く、狩りがうまいオスこそが、健康的で子供をたくさん産めるメスこそが生き残ったはずだからだ。
しかし農耕時代に入り、そうした本来のモテポイントは抑圧される。農耕をするには社会が必要で、社会を維持するためにはルールが必要で、そのルールには婚姻関係も必要で、人様のオンナをとってはいけず、人様のオトコをとってはいけないという「常識」も必要だ。結果だれかれ構わずモテるオトコやオンナはけしからん、間男だ、ビッチだのと責められるようになる。
農耕文化が浸透してから近代に至る道は、非モテによるモテへの復讐の歴史だったと言えるかもしれない(言えないかもしれない)。しかし実のところ、近代は目下鮮やかに崩壊中だ。今後は農耕時代以前とまではいかなくとも、よりモテが幅をきかせる時代になるだろう。実際少子化対策というのは、非モテにとっては「お前らなど価値がない」と言い切るためのものだ。文明化が一通り終わった先進諸国においては少子化が進むのだから、非モテが生きづらくなって当たり前なのだ。
安定も安全もない未来において、「真面目」「堅実」「誠実」といった非モテの武器は通用しない。モテの原初的パワーの前に蹴散らされるだけだ。
Kizuna AIは非モテの希望だ
#キズナアイ 1st Live『hello,world』レポート 全員で“つながれる”ライブ体験 @aichan_nel https://t.co/LR5RkG9MU7 pic.twitter.com/a2S8e2hEIz
— リアルサウンド テック (@realsound_tech) 2019年1月5日
そんな非モテの衰退期に颯爽と現れた希望こそがアイちゃんだと僕は思っている。確かに今までも彼女レベルの美少女は、アニメや漫画によって生み出されてきた。ところがアイちゃんが今までの美少女と違うのは、彼女自身が「終わらない物語」だということだ。
アニメや漫画は終わるが、アイちゃんの物語はコンテンツとして成立する限り続く。そして何より、こちらの存在を1%も知らない二次元の美少女に対して、アイちゃんは僕たちを認知してくれる。これはオタクにとって本当に画期的だと思う。
しかし僕としては、こうした客観的な要素は瑣末なものだと思っている。その理由は、僕がライブ会場でアイちゃんが起こした感動的な出来事を目の当たりにしていたからだ。
ガタガタと寒さに体を震わせながらようやくライブ会場に入場した僕は、コインロッカーに荷物を預け、すでにDJがガンガンに盛り上げるホールの中に入った。するとサイリウムを振り、体を揺らし、飛び跳ねるファンたちの中に、ポツンと突っ立って、微動だにしない男性が一人目についた。言っては悪いが(めちゃくちゃ悪いが)、彼のルックスはTHE オタクという感じだったので、そのときは「ああ、EDMのノリがわかんないのかな」と思った(僕もあんまわかってなかった)。
ところがしばらくしても、彼は本当に全く体を動かさない。ノレていないというよりは、動けないといった感じなのだ。よく見ると体の重心が過度にブレており、もしかすると足などに障害を抱えているのかもしれない様子だった(本当のところは全くわからないが)。しかしカバンはアイちゃんの可愛いイラストがプリントされたものだし、指にはリング状のサイリウムをつけているし、アイちゃんがめちゃくちゃ好きなことは伝わってきた。
まずこの時点で「アイちゃん、すげえな」と思った。真偽のほどはともかくとして、何かしら障害を持っているかもしれない彼が電車に乗り、寒風が吹きすさぶ中開場待ちの列に並び、EDMがガンガンに鳴り響くここまで足を運ぶほど、アイちゃんには魅力があったということだし、彼はアイちゃんに「会いたい」と強く思ったということだ。しかし僕はこの後もっとアイちゃんの力を思い知ることになる。
ステージ上にアイちゃんが登場し、何曲か歌う間も彼は微動だにしなかった。僕自身もアイちゃんに夢中だったので見逃していた可能性はあるが、目の端で捉えていた限りでは動いている様子はなかった。
しかし曲の間のMCでアイちゃんがその日の感謝の気持ちや、自分の目標を語り、そして「これからもついてきてくれるか」といった旨の話をしたとき、初めて彼が指にサイリウムをつけた腕を振り始めたのだ。そしてその後もリズムに合わせて手首だけが動くような形で、彼はノっていた。
僕はこれを見た瞬間、アイちゃんのMCでの感動も相まって嗚咽した。「アイちゃん、あんたすげえよ。カッコいいよ。誰かに希望与えてるよ。最高だよ。バーチャルなのに、すごすぎるよ」そう感じながら、僕は音楽に合わせて飛び跳ねた。飛び跳ねながら嗚咽した。汗と涙が混じってTシャツを濡らしていた。
Kizuna AIに憧れた一人の非モテの独白
この出来事は「Kizuna AIは非モテの希望だ」と言うのに十分なものだと思う。もちろん非モテには色々いるし、僕が見ていた彼がどんな人かも全く知らない。でも少なくとも僕はアイちゃんに希望をもらった。最後にそのことについて書きたいと思う。
「憧れ」が「萌え」を凌駕する瞬間
ダンスミュージックってステキなんです。
みんなで手を上げて、歌って踊って笑顔になれる!
想像した最高の景色が本当に広がってました。
みんな、本当にありがとう!!!
でも、当然ながら!
まだまだ終わりません。さぁ行こう、2019年!
そしてもっとその先へ!これからもよろしくね!!! pic.twitter.com/NEszPFq2Tf
— Kizuna AI@hello,2019‼︎ (@aichan_nel) 2018年12月30日
アイちゃんはもともとものすごく可愛いということは、ここまで再三書いてきた。以前彼女がNHKの番組に出た時、ネット界隈では「あんな男ウケを狙いに狙ったキャラクターをNHKに出すなんて間違っている」というフェミニスト(笑)の批判が流れた。
挙げ句の果てにはデザイナーである森倉円さん(子持ちの女性)にも飛び火し、「男ウケのいいキャラを書かされてかわいそう」「男のいいなりになって書きたくないものを書かされてかわいそう」といったよくわからない同情をする者まで現れた。
誤解を恐れずに言えばこういう語りをする人たちは得てしてものすごくバカなので、どうでもいい。僕がここで言いたいのは、そうしたバカが直感的に反応したくなるほど、アイちゃんのルックスは「萌え」に溢れているということだ。
実際僕はこれまでもアイちゃんに萌えてきたし、会場でライブ衣装姿の彼女を見てそのあまりの可愛さに人生最高レベルの萌えを味わった。悶え苦しむならぬ、萌え苦しむほどの萌えだった。
しかし先ほども触れたMC中の出来事や、彼女がMCで語った夢やファンへのメッセージを耳にした瞬間、僕は萌えを超越した。もう彼女を萌えの対象だけとしてみることができなくなった。その時僕の頭はただひたすら「アイちゃん、かっけえ。アイちゃん、かっけえ!」という感情で溢れかえっていたのだ。
松下幸之助や稲盛和夫、孫正義や柳井正、堀江貴文や家入一真…ビジネスマンがそうした一流の経営者に憧れるように、僕はアイちゃんに憧れたのである。
「アイちゃん、かっけえ。俺もアイちゃんみたいにカッコよくなりたい。あんな風に夢を追いかけて、人に希望を与えてみたい」
なんのてらいもなく、僕はそう思った。
Kizuna AIが頑張ってんだから、自分も頑張りたい
— iori (@iori8181) 2018年12月28日
アイちゃんはいつも元気だし、明るくて、可愛い。バーチャルだから顔に疲れも出ない。だから一見すると彼女はひたすら楽しそうに見える。でもきっと辛い時期もあったろうし、誰にも見えない苦労をしているはずだ。
しかし彼女は諦めず、くじけず、今の場所まで文字通り駆け上がってきた。まだ誰も歩いたことのない道を突き進み、後進のバーチャルYouTuberたちのための道を切り開いてきた。アイちゃんはものすごく頑張っている。
それに気づいたとき、僕はまたしてもなんのてらいなく「アイちゃんが頑張ってんだから、自分も頑張りたい」と思った。「誰かが頑張ってるから、自分も頑張らないといけない」と思ったことは人生で何度もある。しかしそれはあくまでも頑張らないといけないであって、頑張りたいではなかった。ところがアイちゃんに関しては明確に「頑張りたいな」と思ったのである。こんなことは人生で多分初めてだった。
僕はライブに行く前、「こんな頭のイカれた世界に身を浸してみたい。きっと新しい世界が見えるはずだ」という出来心でチケットを買った。この目的は明らかに達成されたと言っていいだろう。EDMにノリまくるのが楽しいことを知り、アイちゃんが最高に可愛くてバチクソにカッコいいことを知り、非モテにとっての希望的な未来を見た。
ライブの最後にアイちゃんは春にフルアルバムがリリースされるというニュースを発表した。彼女が見せてくれるトランス・ワールドをこれからも楽しみにしたい。
非モテはKizuna AIの夢を見たい
Kizuna AI 1st Live “hello,world”
1日目、東京公演!
無事に終了しましたーー!ლ(´ڡ`ლ)✨
来てくれたみんな、ほんっっっとうにありがとう!!!
最高のスタートが切れました!!明日は2日目千秋楽、大阪公演!!
どうぞよろしくお願いします!!!😎✨
(まだ今からでも参戦間に合うよ!!😋) pic.twitter.com/mAyYZRidFI— Kizuna AI@hello,2019‼︎ (@aichan_nel) 2018年12月29日
フィリップ・K・ディックによる小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、タイトルにおいて「人間が羊の夢を見るとして、ではアンドロイド(人造人間)はElectric Sheep(電気羊=人造羊)の夢を見るのか?」という問いを立てたSFの古典だ。
つまるところ、この小説はアンドロイドと人間の比較を通じて、そもそも人間とは何かを問おうとした作品なのである。同じくSF映画の伝説的作品となっている『ブレードランナー』の原作として知られる本作が発表されたのは1968年。50年も前に打ち立てられたこの問いに対する答えは、今なおはっきりとは出ていない。
ではこの傑作のタイトルを文字って「非モテはKizuna AIの夢を見るか?」という問いを立ててみよう。これはつまり「モテる人間が異性の夢を見るとして、では非モテはKizuna AI(バーチャル存在)の夢を見るのか?」ということだ。
実はこの問いに対する答えを考えるのは、すでに彼女に憧れた非モテにとって意味がない。なぜなら見るか見ないかにかかわらず、非モテはKizuna AIの夢を見たいからだ。だから僕たちファン(キズナー)は彼女についていく。この衝動の答えはなくたって、アイちゃんを信じているからだ。
(了)