今日はまず、ちょっとした物語を綴ろう。

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古今東西様々な物品を相手に商売をしてきた骨董商の男は、ある時「見事なくらい空っぽ」な蔵の中で、一本の巻物に出会う。みるとその巻物はどうやら手紙らしい。しかも差出人は江戸の絵師であった。

男はふと思いつき、愛用の帳面に鉛筆で当時の江戸では想像もつかない動物たち……すなわち犀や象、虎、深海の生き物たちの様子をしたためる。そう彼は300年前の江戸の絵師に対して、手紙を出そうというのだ。

骨董商が朱色の郵便箱に手紙を投函してからしばらく経ったある日、男の元に一通の手紙が届く。見るとなんと件の江戸の絵師からの返信である。中には事細かな江戸の様子がつづられていた。

「なるほど、俺の悪戯に付き合ってくれるってわけかい。粋だねえ」とつぶやいた男は、その手紙に返信を書く。そうして奇妙な文通は10ヶ月ほど続いたが、ある時ぷつりと返信が途絶えてしまう。

現実離れしたやりとりと、現実に確かに残っている江戸の絵師らしき男からの手紙。好奇心にかられた骨董商はもう一度あの蔵を訪れる。

するとそこには一つの箱があり、中には様々な技法で描かれた、無数の絵が収められていた。一つ一つの絵を見ると、なんとそれは骨董商が江戸の絵師に向けて綴った動物たちの絵である。男の手紙は時空を超えて江戸へと届き、そこで描かれた絵がまた300年後の現代へと舞い戻ってきた、そうとして考えられなかった。

男はその自由な描線や彩色、構図に江戸の浪漫を感じ、とても嬉しく、少し切なくなった。「ハックショイ!こう埃っぽくちゃクシャミが出るな」そう言って、痩せぎすの初老の骨董商は、目尻を拭った。

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何の物語か。創作ではない。大阪に本拠地を置くアパレルブランドブルーナボインの2019 Spring/Summerのルックブックに添えられた、「江戸の絵師との邂逅」という文章を要約し、若干色付けしたものだ。なぜこんなことをしたのかというと、この物語を三度ほど読んでふと思い出した男がいたからだ。

男の名は寺島良安という。江戸時代中期、大阪に住んでいた医師である。1654年に生まれ、没年は不明。漢方医として優秀だった人物で、当時の大阪城の御城入医師にもなっている。いかにもエリート中のエリートだが、彼がすごいのは医師としてだけではない。江戸期の博物学者としても、彼は超一級の腕の持ち主だったとされている。それは良安が遺した『和漢三才図会』に表れている。

『和漢三才図会』の名は、ちょっと中学で真面目に社会の授業を受けていれば覚えているはずである。同書の成立は1712年、日本最初の絵入りの百科事典で、制作にはおよそ30年がかけられ、全105巻81冊というとてつもなく大きな本だった。百科事典の名にふさわしく、中には和漢の三才(天・人・地)の様々な事象についての考察がずらりと並んでいる。

詳細な挿絵に詳細な解説がつけられており、中でも良安の専門分野である東洋医学に関する記事は、現代の鍼灸師をしてなお「最も信頼できる古典」とする人もいるそうだ。しかしこの本が面白いのは、そうした江戸の医師が本邦初の絵入りの百科事典を作ったことだけにとどまらない。というのも、『和漢三才図会』には多分に空想世界が広がっているからだ。

「穿胸」のページ。国立国会図書館デジタルコレクション『和漢三才図会.上之巻』より

代表的なのは足長手長だろう。足長人は「足長国」の住民で脚の長さが3丈(約9m)、手長人は「手長国」の住民で2丈(約6m)あるとされた。実はこの二種類の人々は仲が良く、海で漁をする際には、常に足長人と手長人の1人ずつの組み合わせで海へ出る。そして足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるとされた。

まるでプラトンが『饗宴』で語った男女の姿のごとく、彼らはお互いに足りないものを補い合って生きているのである。効率重視で「隙間」や「空白」を理解できない近代人の目には滑稽に映るかもしれないが、こんなに美しい人のあり方はそうそうお目にかかれない。現代人のみすぼらしさとは比すべくもないだろう。

ちなみにこの足長手長は、平賀源内の戯曲や、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎などの絵にも登場している。

「穿胸」のページ。国立国会図書館デジタルコレクション『和漢三才図会.上之巻』より

また僕は「穿胸国(せんきょうこく?)」という国の名前も覚えている。胸にぽっかり穴の空いた人たちが住む国のことで、この国の権力者は胸の穴に棒を通されて、それで担ぎ上げられて移動するそうだ。子供ながらに「それって棒のところに全体重かかるから、ものすごく痛いのでは?」と思ったが、この国では当然のことらしい。他にも顔がなくて腹が顔になっている人とか、人の頭がついた鳥や蛇なんてものも登場する。

この世界観に震え、自身の人生に影響を受けた人物は多い。例えば国学の創始者である本居宣長も影響を受けているし、粘菌学者であり本邦随一の博物学者とされる南方熊楠などは、『和漢三才図会』全巻を筆写するほど熱狂した。

もちろん、足長手長たちは当時本当にいたのかもしれないし、実はいなかったのかもしれない。しかしそんなことは心底どうでもいい。少なくとも江戸の人たちはこれをみて「へえ〜!」とか「ほお〜!」とか言って楽しむ教養と遊び心があって、しかもその作者が社会的にもエリート中のエリートだったということが重要だ。

実際当時のエリートたち、例えば前述した平賀源内や、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎、本居宣長などには、どこかしら空想力が伴っている

この中で最もお堅いイメージの本居宣長も、異常なまでの地図収集癖の持ち主で、地図が好きすぎて自分の空想の町を地図に起こして遊んだりしていた(後世の学者は最初必死こいてその地図がどこの地図かを探求したらしい)。僕なんぞは彼のその地図への執着と空想力が「国」「日本」というあるようでないものを生み出したのではないかと睨んでいる。

時代の色が最も濃厚に出るのは、エリートの姿だ。時代がそこに価値を感じていた、あるいはこれから感じていくであろう色がエリートには現れる。何が言いたいか。つまり、江戸には浪漫があったということだ。

思えば元々は神だったものを妖怪に貶めたのは朝廷権力だったが、妖怪を完全に世界から抹殺したのは明治以降に蔓延した浪漫なき「近代」だった。

しかも粋で、なんだか甘くて、嘘くさい、そういう浪漫だ。あるかないかわからなくて、でもきっとあったら美しくて、ないとわかったらきっと少し切なくて、鼻の奥にツンとくるような……そういう浪漫。これは西洋のロマンとは一味も二味も違うだろう。もしかすると別次元のものかもしれない。それが良安の江戸にはあった。

こうして考えてみると、冒頭の物語で登場した骨董商の男の文通相手は、間違いなく江戸時代の人間であり、寺島良安の同時代人だということがわかる。手紙をもとに「ほう!世界にはそんな生き物がいるのか!きっとこんな形で、こんな色で……」と空想を膨らませ、骨董商の目を楽しませることができたのはこの時代の浪漫溢れる絵師だけだろう(明治期の画家にはそんなことは多分できない)。

いやそもそも絵師と区切るのも、もしかしたらおこがましいかもしれない。当時の江戸は分野の区分が曖昧だったからだ。

例えば平賀源内には、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯曲者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家と計10の肩書きが並ぶ。農民を示す「百姓」だって、百もの生業を持つ者みたいな意味があったとさえ言われるのだから、この時代に職業を区分すること自体野暮である。

となると、さらに空想は広がる。骨董商が「絵師」だと思ったのは、いったい何者だったのだろうか。

武士か農民か、商人か、あるいは穢多・非人か、天文学者か陰陽学者か、俳人か詩人か、貴族か書家か……もしくは医師か。この答えばかりは稀代のポストモダンデザイナーである辻マサヒロ氏の頭の中にしかないわけだけれど、なんとも推理欲を掻き立てる符合である。

そもそも1712年に成立した『和漢三才図会』は1609年に中国で成立した『三才図絵』の焼き直しなのだから、この100年の時間差に起きた「文通」と、骨董商と絵師との間で交わされた文通の共通点も探りたくなる。うーん、まったくこんなに深読みしたくなるブランドはなかなかお目にかかれない。

こんな物語をもとにスタートする2019ssのブルーナボイン。その作品も楽しみな限りである。