出典http://www.47news.jp/news/photonews/2010/08/post_20100815080504.php

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

1945.8.15。様々な議論をはらみながらも、今なお日本国民にとって特別な日である。

厚生労働省の発表では支那事変から数えて240万人の犠牲者を出した戦争が「終わり」を迎えた日(1963年の政府発表では310万人)。

人を殺し、殺され、あるいはただ蹂躙されて命を落とした人たち。

怒りに拳に血をにじませ、あるいは声に血を混じらせた人たちの戦いが幕を下ろした日だった。

ところで、2010年の統計によればその年の日本の死亡数は119万人なのだそうだ。

ちょうどあの戦争の死者の半分の数である。

つまり、1937年から1945年の8年間で戦死した人の数は、現代日本の2年間の死者数とほとんど近似値をしめすというわけだ。

なぜ私たちはこの結果を見て「あの戦争の死者数はたいしたことがなかった」「死者数をみれば今の日本のほうが悲惨な場所だ」と言えないのだろうか。世界ではそうでなくても年間で660万人の5歳未満の子供が死んでいる。なぜ、こと戦争をとりあげて「悲惨だ」というのだろうか。

それはそこに、悪意や殺意、私利私欲や功名心が露わになっているからではないか。自然現象としての死ではなく、人為的な死だからだ。殺そうとして殺された人たちが、大部分だからだ。原子力爆弾を落としたパイロットにどんな葛藤があったからは知らないが、そこに「殺そう」という意図がなかったとは言わせまい。

意図のある殺戮だけが悪というつもりはない。しかし少なくとも、それは悪である。その理由が誰かを守るためでも、国をよくするためでも、同盟国を守るためであっても、あまねく全ての殺戮は悪だ。正当化はできない。

もちろん、全てのことが正当化できなければやってはいけないわけでないと思う。そんな品行方正な世界は恐ろしく退屈だろう。しかし自覚は必要だ。無自覚な非行をしていいのは思春期の少年少女だけである。

日本は意図的に戦争ができる国になった。そうなった意味をよく考え、どうしてこのような事態を許してしまったのかを深く反省するべきだ。

政治家が?いや、国民が、である。