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午前3時。再び防寒具を着込み、朝飯の用意を持って近くの展望スポットへと向かう。テントから出た瞬間、空から降り注ぐ星の明かりに驚いた。

月明かりが明るいのは知っていたけれど、星も結構明るいんだ。八雲が池に星が映り込んでいた。あたりは冬のように寒い。昼間歩いた道をたどる。

やっぱりこの歳になっても暗闇は怖い…。小さい頃から暗闇が苦手だったけれど、山の暗闇は別格だ。何かが向こう側からこちらをうかがっているような気がしてくる。

恐る恐る歩みを進めると、琵琶湖沿岸の街の明かりが見え始める。山の中で人工のあかりを見ると安心する。普段はあれだけ嫌いなのに。

琵琶湖を彩る人工の明かりは、空の星と同じくらいきれいだった。もちろんこれはこれでいいのだけれど、もう少しゆっくり星が見たくて少しだけ引き返し、そこに寝転がる。

時刻はまだ3時半。日の出までは2時間半もある。たっぷりの星空観望会ができるということ。

山の星空で流れ星は珍しくない。中には空を一閃に横切る大きなものもある。まるで宇宙空間に浮かんでいるような、そんな感じ。

少し昔のことを思い出して、涙が出た。孤独は人をセンチメンタルにする。汗臭いタオルで涙を拭う。

その時だった。地面を通じてズシリズシリと足音が聞こえてきた。

明らかに人のそれとは違う。全身に緊張が走り、息すら止まる。

熊鈴もヘッドライトもつけていなかったことを後悔した。

ひょっとすると、僕はここでおしまいかもしれない。

静かに確実に近づいてくる気配と足音。おそらくもう何をしても無駄だろう。ただ状況を受け入れるしかない。

僕の背後には(正確に言えば頭上には)、山の王・熊がいる。

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様子をうかがっているのか、熊は僕のすぐ後ろにいながら何もしてこない。ただそこに座ってこちらを見ている。その威圧感ったら、ない。

獣の匂いがする。息遣いも聞こえる。しかし振り向くことはできない。不用意に彼らを驚かせれば即、死である。

ふと僕の目が視界の端で大きな流れ星を捉えた。

あまりにも大きかったので思わず「あっ!」と声を上げてしまった。気づいた時にはもう遅い。

僕の声で驚いたのか熊の目は大きく見開かれる(ような気配がした)。思い出したのは冷蔵庫の中の鳥ハムのことだった。

「びっくりしたあ」

次の瞬間に聞こえてきたのはそんな間の抜けた声だった。いやしかし、僕は今1人だけのはずだ。声のする方を振り返ると、そこには熊が腰を抜かしたように尻もちをついていた。

「え?」

「急に大きな声出すんだもの。びっくりしたよお」

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両前足で目を押さえているのはまごう事なき熊である。

僕は落ち着くために頭につけたままのヘッドライトをつけて、目の前の物体を照らしてみる。

「わ、わあ、ちょっとちょっと!眩しいよお」

「あ、すみません」

慌ててライトを消して非礼を詫びる。どうやら僕の目の前にいるのは、喋る熊らしい(そんな馬鹿な)。

「あの、熊さんはここで何を?」

「それはこっちのセリフだよ。こんな時間にこの場所にヒトがいることなんてないからどうかしたのかと思ってね」

どうやら微動だにせず星空を見ていた僕を心配して様子を見にきてくれたらしい。熊さん優しい。

「いや、今夜は星が綺麗だな思って。それに夜景も」

「夜景ってあれでしょ?湖の向こうのキラキラしたやつ」

「そう、そうです。あのキラキラしたやつ」

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僕が指差すと近くで見たいからと熊は僕の隣に近づいてくる。一瞬怯んだが、もはやここまできて怯んだところでしようがない。

「あの、襲ったり、しないんですか?」

「ええ〜?しない、しない。山にひどいことしたりすると怒ることもあるけどね。ゴミを拾ったりするようなヒトにはそんなことしない」

どうしてそんなことを知っているのかと聞くと、カラスに聞いたのだと言う。そう言えば、武奈ヶ岳で妙にこちらに近づいてくるカラスがいたのを思い出した。

「ところでさっき泣いてたけど、何か悲しいことでもあったの?」

夜景を見たまま、熊は尋ねた。そんなところから見られていたとは思わず、暗闇の中で赤面する。

「大したことじゃないんです……。ある友達にしたとても大切な約束をずっと果たせないまま、もう2年も経ってしまって。連絡をするべきかせざるべきか考えていたら、昔は仲の良かった2人なのにどうしてこんな風になったのかと悲しくなってしまって。それで……」

熊は僕の顔を真っ黒な目でじっと見つめたあと、どっかとお尻をついて座り、人間てのは大変なんだねえと能天気な声を出した。

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「僕たちは生きるために必要なことしかしない。たまには遊んでみたりもするけど、それだって楽しいからするだけさ」

ぽりぽりと右前足の爪で耳の裏を掻くと、熊は続けた。

「その大切な友達っていうのは、生きるために必要なの?それともその友達について悩むのは楽しいことなの?」

僕は答えに窮する。とても難しい質問だと思った。しかし熊はこれに明快な答えを与えてくれる。

「楽しいっていうのは、今日の君の山での体験みたいなことさ。それ以外は必要というほど必要でもないし、まして泣かなきゃいけないことが楽しいことなわけがないよ」

「……」

黙りこくってしまった僕を見て、熊はまた耳の裏を掻く。

「まあ、それが人間、なのかもなあ」

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周囲は少しずつ明るくなり、東の山辺が橙色に染まり始めた。大きな怪物のような雲が西の山から流れてきて、東の山を下っていくのが見える。太陽が琵琶湖の湖面をキラキラと反射していた。太陽よりはるか上には明けの明星・金星に加えて、土星と火星が輝いている。3惑星のランデブーなんて、なかなか見られない。

「僕は今日も美味しい木の実を食べて、冬眠のための食べ物を集めるんだ。冬の穴倉の中でどの木の実を食べようか考える時間は、とっても楽しいんだ」

「それは楽しそうですね」

「君の今日も、きっと楽しいものになるよ。僕が保証しよう」

「頼もしいです」

「でも君の明日は、君が楽しくするんだよ」

「……はい」

僕の返事を聞くと、よしよし、と熊は言った。

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「また何かあればこの山に来ると良いよ。……もう少しで僕は冬眠しちゃうけど」

「必ず来ますよ」

「待ってるよ」

そう言って熊は去っていった。周囲はライトがなくても歩けるほど明るくなっていた。

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テント場に戻り、出発の準備に取り掛かる。慣れない作業に手間取り、40分ほどかかってしまった。

出発するころにはすっかり日は昇り、今日の天気が素晴らしいことを告げていた。荷物は昨日より2〜3キロ軽い。心も、軽い。

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今日は進路を南へと取り、比良山系を縦走する。もともと往路にするつもりだったルートで金糞峠に向かったが、渓谷がとても美しい場所で感動した。

道中、蹄の音が聞こえたと思って音の方をみると、オスの鹿がメスの鹿を追いかけているところで、2頭とも凄まじい速度で駆けるので恐ろしくて身が縮こまった。

あれをみると、草食系男子という言葉の矛盾を思わざるを得ない。少なくとも草食動物男子は恋愛にかなり情熱的だった。

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金糞峠からは小さなアップダウンを繰り返し、常に左手に琵琶湖を眺めながらのコースだ。

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通路を遮る木々が多く、その都度荷物が引っかかって難儀したが、それ以外は晴れ渡った空と涼しい風、照りつける太陽と、最高のハイキングとなった。一泊二日旅行の締めには最適…と思っていたら最後の最後にものすごい拷問が待っていた。

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今回のゴールは冬はスキー場になるびわ湖バレイのロープウェイ乗り場なのだが、登山道を抜けるとこのスキー場を延々と逆走しなければならない。これがこの二日間で一番きつかった。

なにしろずっと斜面だし、周囲に日を遮るものもない。直射日光を浴びながら10キロ超の荷物を担いであるくのは何かの罰ゲームか拷問かのどちらかである。

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何はともあれゴールに到着。あとはロープウェイーバスー電車と乗りつぐだけだ。

ロープウェイまでに時間があったので、レストランで山頂価格のカツカレーとドリンクバーを注文し1人で今日の打ち上げとした。

いやはや、比良山系、素晴らしかったです!

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おわり