随分期間が開きましたが、「僕がうつ病になって知った10のこと」をようやく書き上げました。都合4時間かかった……。

高知へのバスの中でスマホだけで書いたので、文章に雑な部分も少なくないとは思いますが、まあ、気にしないでください。

また、前回同様長文で7000字超えてます。しかもかなり好き勝手書いたので、不快な部分もある、かも。まあ……気にしないでください笑

では。

1.人生に大した意味なんてない。

少なくとも以前の僕は人生には確かに意味があると信じていた。たまにはニヒルに「人生に意味なんてないさ」とか言ってみたりもしていたが、やっぱり人生には意味があって、その意味を全うするためにはなすべきことがあると思っていた。

しかしうつ病になり、文字どおりのたうちまわりながらこれでもかというくらい考え続けた結果、「やっぱり人生に大した意味などないんだ」と思うようになった。これは以前「ぼのぼの」のエントリーでも書いたことだが、僕たちは生きるために生きているだけで、それだけなのである。

もし他に目的や意味があるとするなら、それが達成されればその状態が維持されるか、その時点で人生が終わらなければつじつまが合わない。人生が「生きる」を全うした時点で終わることを考えれば、それこそが人生の意味なのである。

それ以外のすべての「人生の意味」は後付けの、便宜的なもの。もちろん僕はそれを悪いというつもりはない。しかし人生の意味なんてものにこだわって、自分の首をしめる必要はないと言いたいのである。

2.世の中の大半はテキトーにできている。

僕は1年くらい前までは、世の中の人は真面目なものだと思っていた。仕事をサボろうと考える人間なんていないと信じていたし、もしサボっている人がいれば心の底から軽蔑した。約束は守られるもので、みんながみんな、それぞれの発言には責任を持つものと信じて疑わなかった。そしてやはり、約束を破ったり、自分の言葉に責任を持たない人を軽蔑した。

もちろん自分がその人たちと同じような不真面目・不誠実な言動をすると、自分自身をひどく軽蔑したものである。この姿勢は今も基本的には変わらない。「他人に厳しく、自分にも厳しく」これは僕の基本姿勢である。しかしこれまで信じていた前提はこの何年かですっかりひっくり返ってしまった。つまり、世の中の人というのは信じられないくらい不真面目で不誠実な人が多いのである。

こんなことを言うと「傲慢だ!」と怒られるかもしれない。しかし、この考えを僕は曲げない。なぜならいつも本音だけを話し、正しいことだけを行い、自分本位にならず、公平な立場で行動する人なんて見たことがないからだ。そして僕にとってはそういう人だけが真面目であり、誠実なのである。

「そんなやつを基準にするのがいけない」と半ば嘲笑する人も多いだろう。しかし、うつ病になるような性格の人の中には、僕と同じ考えを持っている人も少なくないはずだ。

常に公明正大であろうとし、そして現実とのギャップに絶望し、せめて自分だけでもと思う。そのジレンマの中で自己崩壊を起こす。そのような形でうつ病になった人は、ぜひとも「世の中の大半は自分よりも圧倒的にテキトーに生きている」という事実を認識しておいて欲しい。

これは見下しているのではない。あくまで事実を事実として受け止めているだけである点に注意して欲しい。

3.飽きたらやめてもいい。

だから、というわけではないが、僕はもっとテキトーに生きようと思った。たとえ真面目なふりをしている世の中の人たちから後ろ指を差されようとも、毅然とした態度で、テキトーに生きるべきだ、と。どうせその人たちは自分の不真面目を自覚せずにいるだけなのだから、その指摘を間に受けても仕方がない。

例えば僕は大学時代に付き合う恋人とは「結婚しよう」と「決めていた」。あるいは何歳までに結婚し、何歳までに子供をもうけ、何歳までにどんな生活をして……と人生のすべてを決めていたのだ。一度決めたことは実行するのが真面目だし、誠実さだろう。その途中で飽きたとか、面倒になったとか、魅力を感じなくなったなんて、不真面目・不誠実の極みである。

これは他のことでも同じだ。相手を一生幸せにすると決めた結婚だって、途中でうまくいかなくことだってある。「ずっと友達だよ」と言っていても、絶縁せざるをえない状況だってやってくる。食べている途中で飽きることもあれば、やり甲斐のある仕事だと思って始めたのにやってみたら全然やり甲斐を感じないこともある。

つまらないことを我慢したところで、人生には大した意味などないのだから、その我慢にも意味なんてない。ならさっさとそんな我慢は捨て去って、魅力のある恋人や友達、仕事や料理に目を向けた方が建設的だ。あきたらやめたっていいのである。

4.愛されても愛し返さなくちゃいけないわけじゃない。

しかし、人間関係というのは難しい。こちらが飽きたり、魅力を感じなくなったり、面倒になったからと言って、相手も同じだとは限らないからだ。

僕などは考える。自分が飽きたという理由で、こちらに向けられている何かしらの好意や愛情をないがしろにするのは、不誠実なのではないか、と。確かにこれは不誠実だろう。仮に相手の好意や愛情が誠実なものなら、僕たちは誠実でもって相手に応えるべきだ。

しかし、この考えをもう少し進めてみると、こちらが誠実に対応する必要なんてないことがわかる。つまり「では相手は自分に対して常に誠実な態度をとってきたのか」と考えるのである。そしてその問いの答えが「否」だった場合、僕は「相手が不誠実であるにも関わらず、こちらが誠実である必要などない」と判断する。

誠実の対価は誠実である。しかし不誠実の対価に、誠実はそぐわない。愛されても、愛し返さなくちゃいけないわけではないのである。

5.世の中はそこまで求めていない。

だいいち、たいていの場合世の中は自分に対してそんなに期待はしていないものである。

例えば10の仕事を依頼されたとする。しかし多くの人は10を依頼して、6くらい引き受けてくれればいいなあ程度の気持ちで10を依頼しているのだ。もちろん6の期待に対して10で返せば、期待を大きく上回るので感動を与えることはできる。しかしそうなると次は12の依頼が舞い込み、その数はどんどん増えていく。

自分のキャパシティを拡張し続けなければ早晩パンクするだろう。しかし、世の中はこちらがパンクしたところで代わりを探すだけだ。そこでケアをしてくれる存在は稀である。たいていはパンクしそうなほどこちらが切羽詰まっていることにも気付かない。にもかかわらずそのままパンクしそうになるまで頑張ってみたところでその努力は報われないだろう。

いつか報われる努力そのものを続けたいのなら構わないが、報われるために努力しているのならそれは徒労に終わる。

6.本当に大切な人というのは物凄く少ない。

「本当に大切な人」は、そもそも定義づけるのがとても難しい。しかしあえて僕にとっての「本当に大切な人」の定義づけをするならば、「自分を大切にしてくれる人」「自分が大切にしていることを尊重してくれる人」だ。

僕のうつ病の原因は、端的に言えばまだ未練の残る元恋人を「親友」に奪われたからである。しかしこれはあくまでも「端的に言えば」であり、僕にとってみればこの出来事は死を決意するほど絶望的な出来事だった。

ところが少なくない人たちが、僕がうつ病の原因としてあげるこの出来事を「なんだそんなこと」「よくあることだ」「どうでもいいことじゃないか」と言った。もちろんその人たちはその人たちなりに僕を励まそうとしてくれたに違いない。僕にだってそれくらいのことはわかるし、当時もわかっていた。

しかし同時にその人たちは僕にとっては命に関わるほど大切なことを「どうでもいいことだ」と切り捨てている。それは少なくとも僕を大切にしていることにはならない。

往々にして悩み事なんてものは大したことではないし、どうでもいいことである。世の中には大したこと、どうでもよくないことの方が少ないのだ。しかしそんな客観的な事実など、悩んでいる本人にとってはまるで意味をなさない。

「どうでもいいことだろ」と言われて悩むのをやめるようなら、それは「どうでもいいことだとはわかっているけど、その認識に確信が持てないから誰かに保証して欲しい」だけだ。その人たちは悩み事に悩んでいるのではなく、「どうでもいいことかどうかを判断すること」に悩んでいるのである。まるで問題が違う。

僕の悩み事にきちんと向き合ってくれた人は、やはり少ない。それが悪いことだとは思わない。ただ僕を大切にしてくれたとは思わないだけだ。そして僕はあの時僕を大切にしてくれた人に救われた。だから僕はその人たちを大切にしたい。「本当に大切な人」は、実はそれくらい稀有で、少ないものだと思う。

7.誰も助けてなんかくれない。

「本当に大切な人」の定義と相反するようだが、僕は世界のどこにも自分を助けてくれる人なんていないと思っている。同時に僕は誰のことも助けられないとも思う。自分を助けるのは自分だけだし、その人を助けるのもその人だけだ。周りができるのはそれをサポートすることくらい。僕は一見この絶望的な考えに、大きく救われた。

というのも、僕は誰かを(かつては元恋人を)助けたいと思っていたし、誰かに助けて欲しいと思っていたのである。しかし本人や自分が行動できなければ状況はいつまでも変わらない。助けられないものを助けようとし、決してこない助けを待っているという以前の僕の在り方は、「不毛」そのものだ。誰一人報われない。

ならいっそ、「誰も助けてくれない、誰も助けられない」と思った方が、腹をくくれるというもの。またもし「助けてくれよー」と追いすがってくる人間がいたとしても、情にほだされて、変わりもしない相手のために自分を削る必要もなくなる。

8.損をする生き方はしてはいけない。

この「自分を他人のために削らない」という考え方は、今の僕の基本姿勢の1つになっている。これは詰まるところ、「損をする生き方はしない」という姿勢だ。損得勘定で生きるなんて浅ましいと思われるかもしれない。

しかしそう思った人も、たいていは自分が損得勘定で生きていることに無自覚なだけである。ここで言う損得勘定は、なにもお金や数字で測れることだけではない。思いやり、気遣い、愛情、友情、誠実さ、真面目さなども含まれる。

また「損をする生き方をしない」のであって「得をしない生き方をしない」ではないことにも注意したい。損得がイーブンならそれでいいのである。ウィンウィンならもっと素晴らしい。しかし、自分だけが損をする生き方を、僕はしたくない。少なくとも僕は「みんなが幸せのために自分は不幸になってもいい」なんて聖人君子ではない。自分を含むみんなが幸せになれば最高だし、最悪でも自分だけが幸せでいたい(その状況で幸せを感じられるほど図太い神経は持ち合わせていないが)。

この場合の幸せとは、笑っていること、それだけである。僕は、僕が笑っていられないような生き方はしない。僕は去年の年末頃から、自分でも「よく笑うようになったなあ」と思った。

それまでの数年間は誰かといれば笑うようにしていたが、それは疲れることだったし、一人でいる時にはあまり笑わなかった。うつ病にかかると生きていても嘘のように楽しくなくなる。感情がどこかに行ってしまったようになるのだ。白米を食べていて砂利を噛んでいるような感覚になったのは二回や三回ではない。食事が苦行のように感じたことも、数え切れないほどある。かっこよく言えば、僕は1度幸せの感じ方を忘れたのだ。

だからこそ、「幸せだなあ」と思う感覚が人一倍敏感になっている。「このご飯、美味しい!」と思っただけで心の底から笑いがこみ上げてきて、そのまま泣きそうになることだって最近では珍しくない。自分の作った料理で「あー!幸せだなあ!ヒャッハー!」となることだってある。山で枯葉の敷き詰められた道を歩くだけで同じ気持ちになる事もあるし、猫と一緒に床に寝そべっている時や、ベッドに横になってスーッと眠気を感じる時、やっていて面白い仕事をしている時……僕は毎日気持ちが振り切れるほど幸せを感じて、そして笑顔になっている。

僕はこの僕の笑顔をなんとしても守りたい。2度と誰かに明け渡す気はない。だから、損をする生き方はしない。そのために自分の行動や感情に意識を行き渡らせて、自分の幸せを削るようなことをしていないか、よく考えるようにしている。でなければ僕はすぐに自分を削る癖があるからだ。

自分が何かして、喜んだりしている姿を見たくなってしまう。しかし、その時感じる充足感と、そのために削る自分の幸せは、しっかりバランスのとれたものなのかを考えなければ、あっという間に損をする。僕は幸せでいるために、損得勘定で動くのだ。

9.急がなくてもいい。

人生には意味がないし、実は世界はテキトーで、別にどこかに向かっているわけでもない。どこにも向かっていないのだから、前も後ろも上も下もない。自分が「あいつよりも前にいる、後ろにいる、上に、下にいる」と思っているだけのことだ。それがなにか客観性を持っているわけではない。なら他人と比較して急いだって、そもそもそれはどこへ急いでのことなのかわからなくなってしまう。

もちろん「30までに結婚する!」と自分で決めた期限があって、その期限が迫ってきて急ぐのは間違いではない。その状況だけなら、決められた期限に対して今の自分が間に合っていないのは事実だからだ。

しかしそもそもその期限が「周りがどんどん結婚してるから」「30で結婚してないとかヤバい」という、他人と比較しての期限なら、話は別である。比べても意味がない。急いでも意味がない。自分に意味をつけられるのは自分だけだ。

10.人生は楽しむためにある。

つまるところ、人生は楽しむためにある。僕はそう思う。「ぼのぼの」なら、いやいや、人生は生きるためだけにただあるだけだ、と言うだろう。でもそれを受け入れるには、僕はあまりにも弱い。ただ生きることを受け入れてしまうと、生きることに飽きてしまうと生きていられなくなるからだ。僕は楽しくないならもう生きていたくない。だから、人生は楽しむためにある、と言いたい。

僕が高知県安芸市にある企業を辞めて大阪に帰ってきてから2ヶ月くらいした頃、母の勧めで「幸朋カウンセリングルーム」というカウンセリングルームに行き、松波幸雄先生という心理カウンセラーと出会った。これは僕の人生でもっともセンセーショナルな出会いで、一生忘れられないだろう。初回は母についてもらっていったのだが、「直人さんは良くなりますよ」と言われた時は泣き出してしまった。

松波先生のカウンセリングは完全な理詰め。一切の妥協なく、論理的に自分の感情や考えを説明させられるし、そのために徹底的なサポートをしてくれる。その手法が僕にはこれ以上ないほどピッタリとハマり、3度(1回1時間ほど)のカウンセリングで、僕の病状は見る見るうちに良くなっていった。

そして「卒業」が決まった4度目のカウンセリング。会話の中でポツリと僕が言った「何のために生きるのかがわからないんです」という言葉に、少しの間を空けて松波先生は僕の目をぐっと見据えてこう問うた。

「本当に、わかりませんか?」

この時僕は最初、言葉に詰まった。見透かされたように感じたからだ。確かに僕の中には答えがあったのだけれど、それを言葉にするのが怖かった。僕が答えだと考えて言葉に出すということは、本当にそれ以外答えがないと確信したことになる。でも僕が手にしかけている答えは、僕にとってタブーのような気さえした。本当に答えにしてもいいのか、そんなことを人生の答えにしていいのか。でも、僕にはこれが答えだとしか、もう、思えない。僕はそのようなことを(考えたというよりは)感じて、数秒押し黙った後、真っ直ぐに僕を見据える松波先生の眼を、同じように見据え返して、こう答えた。

「楽しむ、ためです」

このやりとりは、多分かなり正確なものだと思う。この言葉を口に出した途端、僕の心身の中で引っかかっていた何かがパチンとはずれたのだろう。「もう大丈夫だな」と思えたので、自分からカウンセリングルームの卒業を申し出たように記憶している。その後幸いにしてカウンセリングでお世話になるようなことにはなっていない。しかし松波先生のTwitterをフォローしたり、著書を購入しており、変わらず敬愛している。おそらく今後も松波先生は僕にとっての最善の理解者だと思う。

僕の人生はこの5年で目まぐるしく変わった。

公務員になりたいと言っていた小学生の僕は、自分が文章でお金をもらうようになるとは露ほども思っていなかったろう。

いつも憂鬱そうな顔をしながら学区トップ校を目指していた中学生の僕は、自分がこんなに毎日幸せを感じて生きているとは思わなかったかもしれない。

怪我や恋に悩み、力一杯バスケを楽しんでいた高校生の僕は、その数年後に自分がうつ病にかかるなんて、思いもしないはずだ。

いつも自分を含む人の無知に憤怒していた大学生の僕は、今の僕をどんな風に糾弾するだろうか。

しかしどんなに糾弾されようとも、僕は言い続ける。

「知っているか鈴木君、人生は楽しむためだけにあるんだぜ?」と。