あ
紅葉を見に、滋賀県武奈ヶ岳に行ってきた。シーズン真っ盛りというわけではなかったけれど、頂上付近は見頃を迎えていたので、その美しさをテント泊で堪能してきた。いやはやあの山は何度行っても感動させてくれる。
紅葉というのは冬になると葉を落とす落葉樹にしか起きない。葉の根元には「離層」という部分があり、ここには細い管が通っている。夏の間に光合成により生成され続けた糖は秋になる頃に樹木が貯蔵できる許容量を超え、この管を塞いでしまうそうだ。その結果葉に水が送られなくなる。水がなければ葉は光合成ができない。やがて葉は枯れ、離層からハラリと落ちてしまうというわけだ。
い
あの美しい葉の色づきはこの過程の中で葉に含まれるカロチンがクロロフィルに対して優勢になり、黄色になるらしい。紅くなる葉の場合は糖の過剰が起こった際に生成されやすいアントシアニンの影響なのだそうだ。
細かいことはよくわからないが、早い話が本体の樹木が冬の寒さを乗り越えるために一度葉を自分から切り離すということだろう。しかしその散った葉は地面に還り、また樹木へと栄養を供給する。まさにエコシステムである。葉は美しく染まり、一度死んで、また再生するのだ。
え
(綺麗だったので意味もなく朝日を載せてみる。)
なぜド文系の僕がこんなもっともらしい紅葉の科学なんてしたためたのかというと、武奈ヶ岳山行の間ずっと「人の死に際」について考えていたからだ。一枚一枚が微妙に色の違う紅葉のように、人間の死に際にも実に多くのバリエーションがある。たった一人狭い部屋の中で静かに死んでいく場合もあるだろうし、多くの人に惜しまれながら死んでいく場合も、あるいは多くの人に死を切望されながら死んでいく場合だって……あるに違いない。
死に際とは死ぬ側からすれば人生の幕引きであり、残る側からすればその人の最後の記憶である。もしその人を思い出すとすればまずはじめにそこから思い出すだろう。もちろん唐突に断片的な記憶を思い出すこともあるだろうが、そういう記憶はどんどん薄れていって、最後に残るのは一番新しい「死に際の記憶」なのではないだろうか。
ということは、ここで悪態を振りまいたり、品のない生き方をしてしまえばそこまでどんなに謹厳実直に生きてきても「死に際の汚い人」として記憶されてしまうということだ。こんなに悲しいことがあるだろうか。「終わり良ければすべて良し」なんて言葉があるが、これでは「終わり悪ければ全てクソ」である。
しかし死に際になって急に人が変わるということはないのかもしれない。そこで現れるのは隠しおおせてきたにせよ、結局はその人の本質なのではないだろうか。謹厳実直を装って内面に隠し持っていた暴力的な顔、鷹揚を装って必死に取り繕ってきた狭量な顔……最期が近づき、なりふりを構わなくなった時に現れる性質、それこそが本質な気がするのは僕だけだろうか。
人の欠点ばかりをこけおろしたり、馬鹿にしたりする人生を送ってきた人は、死に際になってもやはりそうなると思うのは、あまりにも悲観的だろうか。逆に言えば人のことを心から讃え、尊敬してきた人は死に際になっても愛されて死んでいくことができると、そう思うのは希望的に過ぎるだろうか。
生きている真っ只中に自分の死に際について計画しておくのも変かもしれない。しかしどうせ生きるなら、今から死に際について考えていたい。「どう生きるべきか」は少なからず「どう死ぬべきか」につながっているからだ。
長く生きれば生きるほど、自分の体や心はどんどんコントロールできなくなっていく。脳が蝕まれれば、覚えていたいことも覚えていられなくなる。そうなった時にはもう遅い。ひた隠しにしてその仮面の奥で腐敗した自分の本質が死臭のように周囲の人たちの鼻をついているだろう。もちろんその臭いに自分は気づけない。得てして自分の体臭というのは自分では気づけないものである。
だから自分がこうありたいと思う人生を生きる指標として、本質がむき出しになる死に際について考えるのは無駄ではないだろう。いまをよりよく生きることが、自分ではいろんなことがよくわからなくなる死に際をよりよいものにするのだとすれば。
お
葉の散り際はどこまでも美しい。そこには次の春を生きようとする潔さと希望が満ち満ちている。そんな前向きな散り際だからこそ紅葉は美しいのかもしれない。
散った葉は次代のための肥料となり、また別の世を生きていく。人の死もまた葉の散り際のように潔く、美しくありたいものである。秋口の武奈ヶ岳はそんなことを考えさせてくれた。