先日、日本人が昔使っていた「青」について書いた時に、ふと自分が以前書いた「青」についての文章を思い出した。評判も良い文章だったので、ちょっと掘り起こして転載しておきたい。

以下転載(修正あり)
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沖縄、宮古島の海は青い。
青いと一口に言っても、その青さには言葉では厳密に区分できないほど種類がある。
それは例えば、夕暮れに急速に深まる空恐ろしいような濃い青である。
あるいは朝日が少しずつ世界をサーモンピンクに染め上げていく中で、彩度をあげていく青。
さんさんと輝く太陽の下の、もしかすると「あちら側」の影向(ようごう)かと訝(いぶか)るほどの「嘘のような青」。
時間、心境、環境、体調…それらによって千変万化する青なのだ。
空が青いのも、海が青いのも、結局のところ空気中や水中にある無数の粒子が、人間の目に青く見えるよう反射している、とかそんなところなのだろうけど、そういう議論はここではしないでおこう。
話題にしたいのは、日本各地、特に出雲以西に多い「青島(あおしま)」という島の名前についてだ。
青
青島という名の付いた島は、多くの場合これまでの歴史の中で「あちら側」、例えば冥界とつながる門と考えられてきた。その証拠に、青島には無数の人骨が出土する。つまりは、水葬の際の「送り先」だったのだ。
古代の人々はそうしてやることで、死者が無事あちら側にいくことができるのだと信じていた。具体的な地理を示すならば、日本に住む我々にとっては中国のチンタオ(漢字で青島と書く)が最適だろう。
日本海側から見れば、チンタオの立地は十二分に「あちら側」。この土地の名前の由来を正確には知らないが、事実の真偽はともかく、そう想像しても不自然ではないはずだ。
そして、古代の日本人と我々が見る海は、きっと同じだった。
海は青い。
それは当たり前のことなのだろうか。青いという言葉には、青さの多様性を殺すけらいがある。宮古島の海の青さには、確かに彼岸とのつながりを感じさせるものがある。その青さの続く先、水平線に目をうつす。そこには、打ち寄せる波の向こうに、きっと美しい理想郷が広がっているのだと、信じさせる光景がある。
宮古島
古代の日本には「黄色」という色がなかった。黄は「青」と呼ばれたのだ。黄色とは、記紀神話を見れば一目瞭然で、すなわち冥府の色、黄泉の色である。その黄がなかった頃、同じ色を「青」と呼んだ。そして、冥界へとつながるはずの、水葬の送り先の名を青島と言う。
ここに何かあると思わない方が無理がある。
宮古島の海の青さに「この世ならぬもの」を感じる現代の私たちの感覚は、矛先こそ違えど、古代の日本人と悠久のときを越えてつながっている。
ここの海の青さというのは、そういう青さなのだ。
転載以上

言葉の多様性とは、世界の多様性だと思う。多くの独裁者は人民を支配するために、まず言葉を支配しようとした。言葉は人々の世界だ。それを支配すれば簡単にコントロールできる。わかりやすく言えば「反乱」「思想」「民主主義」などの言葉がない政権下では、反乱も思想も民主主義も極めて起こりにくくなる、ということだ。
時代の流れの中で失われた言葉を掘り起こす作業は、今は忘れられた世界を再発見することなのかもしれない。