5月の末ごろだったか、妙にハイな気分になってとあるマラソン大会にエントリーした。10kmやけど。

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長距離走が大嫌いだった高校時代の僕なら今の僕をみて「うえ〜!お前頭おかしいんとちゃうか!何を好き好んで10kmもはしるんや…」と言うことだろう。それくらい僕の中でマラソン大会にエントリーするというのは狂気の沙汰だ。

初めてのことで不安だったので、「ひとり部」の名を裏切って幼馴染2人を誘っての出場である。「運動不足だったし」と快く一緒にエントリーしてくれた2人には感謝している。自分以外にも沢山の人が参加するマラソン大会なるものに、1人で特攻を決めることはメンタルたまご豆腐の僕には到底無理だ。

で、せっかく参加するのだから1時間は切りたいと思い、この2週間ほど家の近くを少しずつ距離を伸ばしながら走っている。街中を走るのもいいのだけど、車やら信号やらが面倒なので、「万代池公園」という自宅から2km弱のところまで走って行って、公園内をぐるぐる回ってまた帰ってくるというコースを繰り返している(公園1周は700m)。

自分以外にもジョギングしている人やウォーキングをしている人もいるが、高級住宅街ということもあってかこの上なく穏やかに走り続けることができる。

このジョギングを何回か繰り返していると、不思議な気持ちになってくる。まだたかだか数kmのジョギングに過ぎないが、「走ることの気持ち良さ」を実感できるようになってきたのだ。

これはもともと僕が何をしていても考え込む癖があること、そして以前のように肺が辛くなるような走り方ではなくゆっくりとしたペースで黙々と走る方法をとっていることも影響しているだろう。ただそれでも、「走る」という行為には色々な人が取り憑かれるなにがしかの魅力があることは間違いないと思う。

ノーベル文学賞候補として何度も名前が挙がっている作家村上春樹もエッセイでこんな文章を書いている。この文章は村上春樹ウルトラマラソン(100km)を走った時の情感を綴ったものだ。

「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ」

その言葉を頭の中でマントラのように、何度も何度も繰り返した。文字通り「機械的」に反復する。そして自分の感知する世界をできるだけ狭く限定しようと努める。

僕が目にしているのはせいぜい3メートルほど先の地面で、それより先のことはわからない。僕のとりあえずの世界は、ここから3メートル先で完結している。その先のことを考える必要はない。空も、風も、過去も、記憶も、僕にとってはもうなんの関係もないものごとなのだ。

ここから3メートル先の地点まで足を運ぶーそれだけが僕という人間の、いや違う、僕という機械のささやかな存在意義なのだ。

引用:村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』(2010)

*改行筆者

この文章を見つけた時、「そうそうちょうどこんな感じ」といたく共感した。といっても数kmしか走れない僕がこの領域まで到達しているわけではない。

ただ3年以上続けている登山をしている時に、ほとんど同じ心境になったことは何度もある。ジョギングの時の「気持ち良さ」がその時の心境に似ていることに、この文章を読んで気づいたのだ。

自分の存在の意味が限りなくシンプルになり、透明な意識だけが地面を移動していく。それまでは太ももに、膝に、腰に、肺に、全身に負荷や痛みを感じていたのが、たちまち霧散してしまう。登山であれば山の一部になってしまったかのような、そんな感覚(別段ものすごい山を登っているわけでもないので、これもまた偉そうな物言いには違いないが、確かにそういう感覚を僕は知っている)。

とはいえ、毎回この感覚が訪れるわけではない。特にジョギング前の筋トレが充実すればするほど、ジョギングの時の体の重さはどうしても増してしまう。コンスタントに、意識的にこの感覚を味わえるように、もっともっと走る練習をしていきたい。そうすればまた楽しい趣味が一つ増えることだろうから。