ずっと、「服を着ること」に執着してきた

僕は昔から「服を着ること」に執着がある。

記憶に残っていないほど幼い頃、母が服を着せてくれたのに「あの服が着たい!この服はイヤ!」と駄々をこねて「男のくせに細かいこと言うな!」とあまりそういうことを言わない母をイラつかせたという。

かたや5つ上の兄はまったく頓着せず、上から順番に着ていくのが常だったそうだ。

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小学校の頃はお小遣いも少ないし、ほとんど制服で過ごすので何を着るかについてあまり深く考えていた記憶はないが、中学に上がってしばらくするとHIPHOPにハマって、ラッパーの服装を真似するようになった。

ダボダボの服を着て「ブリンブリン」と呼ばれるデカいネックレスをつけ、兄のお下がりのエアジョーダンを履いていたものである。

このマイブームは高校2年くらいまで続き、その後はロックにハマってロックミュージシャンの服を真似してみたり、おしゃれな友達に影響されて雑誌『チョキチョキ』のような格好をしてみたり、お金がないからと手持ちのものでオシャレを追求した結果迷宮に迷い込んだりしていた。

大学に入ると少しお金に余裕ができたり、「周囲にウケるファッションがしたい」と思ったりしたので、服を着ることへの執着はどんどん強くなる。

今はほとんど「周囲にウケるかどうか」を気にすることはなくなったが、「自分が着たい服」への欲求は強いままで、衣食住のうち衣への浪費がとまらない。

ファッションは自己表現?

大学生の頃、僕の異常な服への執着を知ったある女性から「あなたにとってファッションってなんなの?」と聞かれ、気取った当時の僕は「自己表現だ」と即答したことがある。

これは今もその通りだと思っていて、着ているもの、身につけているものは望むと望まざるにかかわらず「私はこういう人間です」という表現(メッセージ)になると考えている。

これは着るもののそもそものルーツをたどればわかりやすい。

例えば江戸時代、武士は武士の格好、農民は農民の格好と身分に応じて身につけるものは決まっていたし、もっと細かくみても武士の中で将軍と足軽は身につけているもので見分けがついたはずだ。

もっと時代をさかのぼって飛鳥時代に制定された「冠位十二階」は、身につけているものの「色」で階級を分類した制度だった。

冠位十二階で高位とされる「紫」は、日本だけでなく世界的にも高貴な色とされ、英語には「ロイヤルパープル」という色があるし、、”born in the purple”(または “born to the purple”)は「王家に生まれた」という意味になるそうだ。

カエサルのマントは紫だったし、クレオパトラ7世の旗艦の帆も紫、「マルコによる福音書」でイエスが着せかけられたマントも紫だった。

身につけるもの(服や装飾品)は、歴史的に「自分が何者か」を表明するものだったわけだ。

身分制度がなくなった今の日本でもそれは変わらない。

むしろ身分や収入の多寡がそのまま身につけるものに現れなくなったせいで、より内面を表明するためのツールになってきていると言えるかもしれない。

例えば動きやすさ重視のスニーカーを履いている人は、活動的なイメージを与えたり、場合によっては「子供っぽい」というイメージを与えたりするし、安物の革靴を履いている人は「見た目にそこまでお金をかけるつもりはないけど、見た目はキチンとした人間、大人っぽい人間に見られたい」というメッセージを放っている。

同じスニーカーでもハイテクスニーカーやハンドメイドの高級スニーカーを履いていればファッションや見た目への興味の強さをアピールすることになる。

ただ、身につけるものが発するメッセージはそう単純ではない。なぜならファッションはトップス、アウター、インナー、ボトムス、ソックス、シューズ、バッグ、アクセサリーという「記事」が集まって1つの大きなメッセージになるからだ。

例えるなら雑誌や新聞のようなもので、個々の記事の内容だけでなく、編集によってトータルなメッセージを持つのがファッションだと、僕は思っている。

だから全身無難で「間違いない」服で揃えていれば、「オシャレでもなく、かといってダサいわけでもない服を着ることで、周囲に溶け込んで目立たないようになりたい」とか「服なんてどうでもいいけど、他人を不快にはさせたくない」といったようなメッセージになる。

あるいは全身を奇抜な服ばかりで固めている場合は「俺を見ろ!俺はここにいる!」というメッセージにもなるし、「お前らがどう思うかなんて知らない!私は私よ!」というメッセージにもなる。

生地にこだわった服を中心に身につけていれば、「自分を大切にしたい」という自己充足感を重視している印象を与えるし、見た目重視の服を選んでいる人は「自分よりも他人からどう思われるかが大事」という印象にもなる。

もちろんそうしたメッセージは各人の人となりとも強く関係しているので、純粋な見た目だけで判断することはできない。

しかし少なくとも何かのメッセージを発していることは確かだろう。

今の僕の場合、見た目にはただならぬこだわりがあるが、それは実は「他人からの見た目」ではない。

僕がこだわっているのは、多分「自分からの見た目」だ。

なりたい自分なのか、あるいは今の自分の気分を体現している自分なのか。

この意識は服を脱いだときの筋肉や脂肪、肌の状態にまで及ぶ。

「自意識過剰だな」?

その通りだと思う。僕はおそらく物心ついたときから、かなりの自意識過剰だった。

長くなったので明日に続く。