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文学のように服を「読む」ということ
服は文学によく似ている、と思う。
文学は「感性」と「論理」の境目を行ったり来たりする芸術の一つだ。
文学は感性的である、という点に反対意見のある人は少ないと思うが、文学は論理的であるという点に関しては「ん?」と違和感を感じる人も多いかもしれない。
実際、文学的な文章(文学文)というのは、論文のような論理的な文章(論理文)と対比されて、感性や感情に訴えかけるものであるとされることが多い。
しかし上質な文学文というのは極めて緻密な論理の上に成立しているものだ。でなければ本当に伝えたいことは伝わらない。
「傍線部の登場人物の心情に最も近いものを、次のア〜オから選べ」という問題が成立するのは、文学文が論理的に作られていることの証明だ(「そんなもんわかるか!」と憤った経験のある人も多いだろうが)。
服も「感性」と「論理」の境目を行ったり来たりする芸術だ、と思う。
「ファッションセンス」という言葉があるくらいだから、服は感性的なものという点に違和感を抱く人は少ないと思う。
では「服は論理的なもの」と言われたらどう思うだろうか。少し違和感があるかもしれない。しかし服の役割というのは、ファッションとか装飾としてよりも先に道具として作られたものだ。
例えば2010年に出版された『メンズウェア100年史』という本がある。この本をパラパラとめくればわかるように、100年前のメンズウェアはファッションと呼ぶにはあまりにも道具的だ。
労働者や農業者、漁業者、軍人などにとって、服はおしゃれのために着るものではなく、自分の身分を表したり、仕事をしたりするために着るものだった。そこにあるのは感性ではなく、論理だ。
現代の服の大半は過去の服の機能やデザインを踏襲したものだから、かつて道具としての役割を果たしていた服の論理は、現代の服にも残っている。
だから僕は、文学と服が同じ「『感性』と『論理』の境目を行ったり来たりする芸術」に分類できると思ったのだ。
誰も服の「読解法」を教えてはくれない
文学の読解法は世の中に溢れている。受験生向けの現代文の参考書しかり、無数にある文学研究の論文しかり。学ぼうと思えばいくらでも学べる。
では服の「読解法」は誰かが教えてくれるのだろうか。
誰が?
ショップ店員?
ファッション誌?
ストアブログ?
ごく稀に教えてくれることもあるが、基本的に期待はできない。
このあたりの不満と僕が今目論んでいることについては、「服について『もっと丁寧に、濃密に、カッコつけずに』伝えよう」で書いているが(近日投稿予定)、ざっくり言えば今のアパレル業界というのは得てして「伝えること」をサボっているのだ。
サボりたくてサボっているわけではない(と思いたい)。要は業界の最中にいる人たちは、読み方こそわかっているのだけれど、それを誰かに伝えるための言葉を持っていないのだ。
飛行機が飛ぶのは知っているけれど、なぜ飛ぶことができるのかを説明できないのと同じだ。
じゃあどうすれば服を読解できるのか。正直なところ、僕にも答えはわからない。でもその糸口はある。
というのも、僕はライターという言葉のプロであり、取材を通じてAさんから聞いた話を、Bさんに伝わるように翻訳するプロでもある。
加えてここ2年ほどのファッション体験の中で多くの出会いに恵まれ、その結果なんとなく服を読むことができるようになってきた気もする。
そこで以下では、MITTANのカディロング羽織という服について、真似事ではあるが、読解を試みたいと思う。「そんな風に服を読むことができるのか」というケーススタディになれば幸いだ。
※MITTANについてはシンプルなのに、狂ってるカバンから
ケーススタディ:MITTAN カディロング羽織
カディロング羽織(JK-15C)はインド産の手つむぎ手織り生地「カディ」を使ったロング丈の羽織だ。
カディについての説明は物凄くナチュラルなのに同じくらい「パンク」なシャツに譲るとして、以下ではこの服が「布をまとう」を追求した一着だということを、読み解いていきたい。
「肩線」を消し、布本来の流れるようなラインを作っている
多くの洋服は体の前側の布と後ろ側の布(前身頃・後ろ身頃)を肩のところで縫いつけている。あなたが着ている服の肩のところを触ってみてほしい。
たいていの人はそこに縫い目があることがわかるはずだ。
こうなっているのには理由があるのだけれど、同時にデメリットもある。縫うためには布と布を重ねる必要があるわけだが、すると布本来のラインよりもわずかに「ぽっこり」と盛り上がってしまうのだ。
「別にええやん」と思うかもしれない。しかし「布をまとう」というコンセプトからはズレてしまうことがわかってもらえるはずだ。できるだけ布を布のまま着るには、このぽっこりが邪魔だ。
そこでカディロング羽織(JK-15C)は、肩の前側から後ろ側にかけての部分を、布で包むような形で袖をつけている(ラグランスリーブ)。
縫い目は脇の下から袖に向かってつけているから、一見すると限りなく布自身に近いシルエットになる。
「布をまとう」というコンセプトからすれば、縫い目はノイズだ。ノイズのないテレビ画面や音楽が心地良いように、ノイズのない服はシンプルな美しさを持つ。
カディロング羽織(JK-15C)で採用されている肩のラインは、そうした美しさを追求した結果なのだ。
ノイズをなくすためのその他の工夫
布の接ぎ方を工夫することで「布一枚」に近づけている
ノイズをなくすための工夫はカディロング羽織(JK-15C)の随所に組み込まれている。まずは後ろから見てみよう。
布と布の縫い目が見えるのは、上部の背骨の部分と左右の肩の部分だけ。背中のど真ん中に接ぎが入る服もあるが、それでは「布一枚」には見えなくなる。
前身頃と後ろ身頃は体のサイドで接いでいる。これにより、袖を下ろした時には縫い目が消え、やはり布一枚に近づく。
サイズをゆったり目に作って着たときに布の余りが出るようになっているから、この縫い目は布の中に埋もれてなおさら見えにくい。
僕が持っているのは黒だからさらに縫い目は目立たない。
ポケットを構造線の中に埋め込み、見えなくしている
ポケットはサイドの縫い目の中に埋め込まれている。ポケットは何かと便利だが、「布をまとう」をコンセプトにするならノイズになりがちだ。
これをすでに存在する縫い目を利用してつけることで、布の揺らぎの中に埋もれさせている。
縫い代を最小化することで、布自身の軽さを維持している

2本の細い線が縫い目。
接ぐときに使われている縫製方法も、ノイズをなくすために一役買っている。
普通布と布を縫い合わせるときは、「縫い代」を確保して縫う。この方法の方が丈夫だし、簡単だ。
ただし縫い代の分だけ余分な布を使うことになるので、前述した「ぽっこり」も生まれるし、重さも出る。「布一枚」から離れていくわけだ。
だからカディロング羽織(JK-15C)は縫い代を最小限にして、できるだけ「ぽっこり」と重さを抑えている。これにより、カディという生地の軽やかさが徹底して生かされている。
服の物語を紐解く
MITTANのカディロング羽織(JK-15C)には実用面の魅力も多い。
ラグランスリーブにすることで可動域が確保されている点や、筒袖にすることで通気性やレイヤードのしやすさを高めている点、アウターにもコートのインナーにも使える着回しのしやすさも魅力だ。
こうした点は、ショップ店員やストアブログでも言及されているかもしれない。
しかしこの服に込められた「布をまとう」という「思想」の方は見過ごされがちだ。
なぜならただ袖を通すだけではこのことをきちんと理解することはできず、読解が必要だからだ。
カディロング羽織(JK-15C)のように、紐解かれるべき物語を持っている服は世の中にごまんとある。しかし読まれないまま、ただひたすらに表紙買いされているのが現状と言える。
これはあまりにももったいない。装丁の美しい本はそれだけでも十分価値があるが、だからと言って中を読まなくてもいいという話にはならないはず。服も同じだ。
服を読むということの価値がもっと高まれば、と思う。このブログでは、拙いながらもその実験をしていければと考えている。
※本ブログに書かれている「解釈」はあくまで筆者のものです。ブランドやデザイナー、取り扱い店舗とは一切関係ありませんので、あらかじめご了承ください。