〈一の三〉
「おはようございます、サカキさん」
「おはようございます」
高台から琵琶湖を眺めていると、三〇代らしき男性信者が声をかけてきた。あのあと私が寝入るまでじっと外の闇を眺めて考え込んでいたようだが、その結論として彼は私を神扱いするのをやめたようだ。賢明な判断だろう。
「素晴らしい眺めですね」
「はい、ここからの眺めは私たちも気に入ってます」
「本当に、人の世界からは隔絶された場所ですね」
「サカキさん」
「はい?」
彼のほうを見ると、その視線はシェルターの方に向けられていた。
「誰かが、近づいてきています」
「誰か、というのは」
「この辺りは登山客が来るような場所ではありませんし、昨日今日は霧が出なかったので遭難者でもないでしょう。おそらくはサカキさんを追ってきた人か、あるいは」
信者たちを追ってきた者か。私は彼らがどんな罪を犯したかをまだ知らないし、知りたくもない。どちらにせよこのままでは私の身が危うい。追ってきたのがサイトウさんならもちろん、朽木村の人たちであっても仲間だと思われて罪を問われる。形としては完全に私がシェルターにかくまっているからだ。
「みんなにも知らせましょう」
「わかりました」
高台からの去り際、ふと後ろの琵琶湖を振り返ると麓から駆け上がってきた風が空へと突き抜けて行った。
「みんな、追っ手だ!」
男性信者がシェルターの中に向かって言うと、すでに信者たちは移動の準備を終えており、彼の方に頷いてみせた。それに答えた男性信者は最年長の信者の近くに腰を下ろして尋ねる。
「何人だ?」
「それが、一人なんだ」
どうしてここにいながらにして人数までわかるのか。訝しく思ったが、一人という人数が何を示しているかはわかった。
「サイトウさんだ」
その発言を聞いた信者たち、いや逃亡者たちは私のほうを一斉に見た。すると最年長の男性が三○代の男性にこう言った。
「おいサゴジ。彼を山麓まで乗せて走れるか」
「もちろんだ。彼は俺たちを許してくれた、恩人だからな」
「頼む。わしらはそのサイトウさんを足止めする。ここからだと南のスキー場まで行けば安全だろう」
「わかった。よし、サカキさん行きましょう」
「え、でも乗せるって……」
何か乗り物でもあるんですか、と聞こうとした私は言葉と一緒にツバをゴクリと飲み込んだ。サゴジと呼ばれたその男性の鼻と口がグググと前にせり出し、もともと大きかった体は全身の肌から急速に伸びる硬そうな体毛でさらに大きくなり、指先からは強靭そうな爪が生え出す。数秒後には完全なる一頭のクマになっていた。
「さあ、サカキさん、乗って!」
口はガウガウ動いているだけだが、頭の中に響くようにサゴジの言っていることがわかる。私の身にいったい何が起きているのか。
「は、はい!」
多少声をうわずらせながら、一頭のクマの背中にまたがる。
「多少強く握っても痛くないので、しっかりつかまっていてくださいね」
「は、はあ」
物語の展開に全くついていけていない私に後ろから逃亡者たち、いやクマたちが声をかける。
「サカキさん、ありがとうございました。また山にいらっしゃった時はお会いしましょう」
「え、あ、はい」
返事をするや否や、体を後ろに強く引っ張られる。サゴジが走り出したのである。お世辞にも乗り心地がいいとは言えないが、さすがは走れば時速五〇kmとも言われるクマだ。ものすごいスピードで山道を駆け抜けていく。リスや鹿は山の王が全速力で走っているのを見て何事かとこちらを見ている。乗っている私が聞きたい。いったいこれは何事か。
三〇分ほど走ると目的地のスキー場近くにまでやってきた。通常の登山コースから少し離れた場所でサゴジは私に背中から下りるよう言った。
「すみません、乗り心地悪かったでしょう」
「ええまあ、ケツの皮がむけたくらいなので問題ありませんよ」
「毛が硬くてすみません」
「いえいえ、本当に助かりました。サイトウさんに捕まったらケツの皮どころじゃない」
「ならいいのですが、あの、サカキさん」
「はい」
襲われたら間違いなく殺されるであろう大きなクマが、神妙そうな顔をしてもじもじとしている。
「私たちは、人を、殺しました」
「へ、へえ」
なんと間抜けな相槌だろうか。しかし目の前のクマが突然こう言えば誰もまともなリアクションはとれまいて。
「うちの息子、ガクが害獣除けの罠にかかってしまったんです。それを助けようとしているうちに猟銃を持った朽木村の人たちがやってきて、こちらも必死で、仕方なく」
「それが、みなさんの罪ですか」
「はい」
サゴジはうつむく。私は深呼吸をする。あれだけのスピードでサゴジが走ってくれたのだから、サイトウさんが追いつくまではまだまだ時間があるだろう。私は自分の考えをこの子供思いのクマに伝えることにした。
「しかし、それは罪だろうか」
「村人たちは悲しみ、怒っていました。私たちが食べる目的以外で命を奪ったからです」
「それでも私はそれを罪とは思いません」
クマは私の言葉を待った。
「現代の人間というのは自分たちが弱いために、強い生き物を自分たちの生活から追い出そうとする。もし強い生き物が生活の中に入ってくれば、すぐに『危機』だの『敵だ』といって攻撃する。私はこれを非常に愚かで、卑しいことだと思っています。強い生き物に対する尊敬の念を失い、武器を使ってそれを駆逐しようとする。そんなことをすればしっぺ返しを受けても仕方ない。もちろんみなさんが正しいことをしたかはわかりません。しかし間違ったことをしたわけでもない。村人たちは悲しみ、怒ることで行き場のない気持ちを消化しようとしているだけです。以前の場所で生活することはできないかもしれない。でも罪の意識を抱えて生きる必要はないのではないでしょうか」
黙って聞いていたサゴジは、大きく息を吐いて小さく、ありがとう、と言った。
「また、必ず会いましょう」

「はい」

私はスキー場へと歩みを進める。歩きながら、サイトウさんから逃げるための次の作戦を考え始めていた。