私がそう口にした途端、香織嬢は我が意を得たりといわんばかりに口角をあげ、私の胸倉をつかんでこう言った。
「上等だ」
私は様子のおかしい里美ちゃんを森野が介抱しているのを見届けて、負け戦の場へと身を翻した。相手は底なし沼の香織嬢である。死なばもろとも、という覚悟すら持ってはならぬ。

しかし、私はこの後奇跡的に生き残った。酔ってはいたが、潰れてはいなかった。私より先に香織嬢を睡魔が襲い、彼女は唐突にその場に突っ伏して眠ったのである。決死の戦から命からがら帰還した私は、安堵の念に胸をなでおろしながら周囲の様子をうかがった。すると、思いのほか生存者は多かった。それはひとえに郷田の功労であった。郷田は早い段階から千沙の酒に九六度のリーサルウェポンを混入していたのだ。そのために本人の予想を上回る勢いで酒は回り、千沙はあえなく撃沈したのである。でかした郷田! と心の底から快哉を叫んだ私である。
それからの会は何とも甘いムードであった。里美ちゃんはここぞとばかりに(本人に自覚はないだろうが)森野に甘え倒し、それを森野も甘受していた。それを眼前に見た昏睡状態からさめた弘毅は、
「むぬあー」
と意味不明の奇声を発し、目の前にあったウーロン茶をイッキ飲みしてしまう。吐き気のあるところに飲み物を投入すると、それがどんなものであれ吐いてしまうことがある。彼のこの場合がそうであった。彼は声にならない声を発しながらトイレに駆け込んだ。この男つくづく憎めないやつと思っていると、岸田の駐輪場に誰かが自転車で来た音がする。私はその正体を知るとともに、憎めなかったこの男を憎むことになる。
それは、弘毅が里美ちゃんの次に好きになった女の子であった。郷田が気を利かせて呼んでおいたらしい。この男、この日はやけに冴えていた。
「弘毅さんは」
と挨拶もそこそこに彼の居場所を尋ねた彼女は、なんとも可憐な黒髪ショートの女性である。相も変わらず、弘毅は面食いなのだ。
「トイレに」
私が言うか早いか彼女はトイレに駆け込んだ。大丈夫ですか、などと献身的な響きで問いかけている。本当にあの男が恋破れた相手なのかと疑う程の心配ぶり。突然現れた彼女に弘毅は一瞬驚いたが、たちまち幸福そうな表情に変わり、よわよわしいガッツポーズを見せた。
私と郷田は、なんだか寂しくなってしまった。しかし、本当にさみしいのは私だけである。なぜなら郷田は一人ではない。彼は弘毅とその思い人の様子を見、里美ちゃんと森野の様子を見、そして何のためらいもなく眠っている香織嬢の横に寝ころんだ。やつにはぬくもりをくれる相手がいるのである。この私にはそれがない。私のみが生存者の中で独りなのである。それに気付いた時、酔いも手伝ったのだろう、私の中で何かのスイッチが入る音がした。結果として、私の記憶はそこまでしか残ってはいない。

そしてこの状況である。あの記憶の状態からこの様相にまで至るには、何かしらのカタストロフィーが起る必要があろう。でなければ説明がつかない。あの時の生存者の面々がこうなるまで飲もうはずはないからである。少なくとも、何かしらのスイッチが入った私以外は。私はふと机の上を見た。ミートソースドリアが食い散らかされている。これはあのときまだ岸田には存在していなかったはずだ……そのことを思い出した途端、私の頭に断片的な記憶が続々と浮かび上がってきた。出来たての、二つの意味でゲキアツなドリアを郷田の口内にねじ込む映像、
「熱いのなら冷たいのをやろう」
とリーサルウェポンを彼に投入する私の手。高らかな笑い声が聞こえたかと思うと、何かを飲み干した様子の森野と私の手に持たれたウィスキーの瓶が映像として映った。妙な汗が背中ににじんだ。あれやこれやとどれだけ希望的な観測を繰り返したところでこの惨状の首謀者は私なのである。玄関先の「モノ」はその場にとどまらず、扉を出た先にまで続いており、その足跡は森野の家の扉まで続いている。
そのことから察するに、不幸中の幸いながらこのモノの元宿主が私でないことは確信してよいようである。しかしそれはそれこれはこれ。自らの所業の記憶が戻った以上、そしてこの状況の第一発見者になった以上、私はこのモノを何とか処理しなければならぬ。自ら「見て見ぬふり」の師範代を授けた私とはいえども、自らの所業もかえりみず、玄関にまき散らされた吐瀉物をまたいで、自室に帰ることなどできない。
私はおもむろに郷田宅の雑巾を探し始めた。トイレ脇に置いてある衣類などがごった返している部分をあさってみたが、雑巾なのかタオルなのか到底判断しきれない布ばかりで困惑する。二日酔い未ださめやらぬ状態も手伝って、私はすこぶる機嫌が悪くなった。「雑巾ぐらいわかるように置いておけ!」とぐっすりと眠っている郷田の顔に床に広がっているモノをぶちまけたくなったが、私の中のジェントルマンがこう言ってそれを抑えた。
「彼に非はないさ」
そうその通りである。私は代わりにそこにあったタオルとも雑巾とも判断の附かぬ布切れを、ほとんど何の吟味もせずに後処理に用いることにした。許せ、郷田。

にしても、見るだけでこちらまで色々と催しそうな様相である。ふう、と短く息を吐いてそれに取りかかろうとしたその刹那、私の背後から素っ頓狂な叫び声が聞こえた。
「な、なんじゃあそりゃあ」
郷田であった。彼は私のごそごそと部屋をあさる物音に野性を刺激されたのか、アルコールによる極度の昏睡状態から目覚めたのであろう。とはいえいまだに酩酊状態であるには違いない。
「草さん、なんちゅうことを」
野性児の割に自らの家になると汚れることを極度に嫌うのがこの男である。ならば自分の家で宴会など開かなければよいのにと思うが、存外に人見知りの彼は自らの牙城でなければ安心して酒も飲めないのであった。一度私の家で宴会があった時に郷田も招いたのだが、その日集まった面々が彼のあまり知らない人間ばかりであったせいで、借りてきた猫のような(その風貌はライオンに近かったが)おとなしい様子で殆んど口を利かないまま静かに自分の家に帰っていった。とにもかくにも、この惨状の主犯は私ではない。
「私ではない」
「じゃあ誰やねん」
怒り心頭の彼は犯人がだれであろうともはや構わない。
「もうほんまあり得へんわ。吐くんやったらトイレ行けっちゅうねん。台所が一回そんな風になったらメシも気分よう作られへんやないか。誰がやってん」
断じて私ではない。この惨状の主犯は私ではない。確かにそのきっかけを作ったのは私かもしれない。そのことを認めるに私とて決して吝かではないのだ。しかしだからこそ、二日酔いで世界が未だぐるぐると回っているような状態のまま、タオルか雑巾かなどとと本来なら迷う筈もない分岐点で逡巡などしつつ、私はその処理をしようとしているのだ。その私にこの仕打ち。私の苛々は募りに募った。その時である。
「ぶっはあー」
と奇声をあげて千沙が起き上がった。今一番起きてはならない人物であろう。
「どうしたの、草さん」
「いや、お前は寝ていてくれ。おそらく話がややこしくなる。状況もややこしくなる」
「何だよ、つれないなあ」
そう言って陸に上がったウミガメのように地面を這ってやってくる。後方ではまだ郷田が何か喚いている。状況の説明を求めているようだ。
「おー、なんだこれは」
「見てわかるだろう」
「わっかんないなあ」
どうやらこの生き物も未だ酩酊状態にある。それに気付いた頃にはもう遅かった。何が遅かったかと言って、私の堪忍袋の緒がだらりと伸びきるまでに事態が収拾できなかったのだ。彼女は自分の前あしで眼前の液体を、
「ピチャピチャするぞー、これ」
と言いながら弄びはじめたのである。私の脳髄はこのような奇行を受容するほどおおらかにはできていない。後ろの方では郷田が相変わらず喚いている。その怒声に目が覚めた二日酔いの香織嬢が郷田に絡み、二人は遂に喧嘩を始めた。そのような状況など全く意に介さない千沙は、ずっと先ほどからの奇行を続けている。私の中の何かが、ぷつん、とはじけた。

私は静かに岸田の扉を閉じた。外は素晴らしい快晴である。このような日に意味のわからぬ酔っ払いどもと戯れる趣味など持ち合わせていない。たとえあの状況に自分が一枚かんでいても、である。
自宅に帰る途中、ぼんやりと空を眺めているとふわりとやわらかそうな雲が視界に流れてきた。それを見て、ふと弘毅のことを思い出した。あの少女とはどうなったのであろうか。そう言えば、森野と里美ちゃんは。しばらく思い出そうとして記憶の海の中に潜ってみたが、全く息が続かなかった。そんなことより頭が痛い。

一二月三〇日.

気づけば、もう四回生である。しかも卒業は眼前に迫っている。思えばなんと早いことか。
そんなことを思ったのは、あの忘年会から数日たったある日のことである。ふと日めくりカレンダーの日付を見て、もう年末ではないか、と誰に言うともなく責めるように言って年末大掃除を始めた。掃除というと年末ぐらいしかしないものだから(しなかった年もあることを書き添えておこう)、私の部屋は大掃除と言うにこの上なく相応しい。一回生の時に百円均一で購入した掃除道具を押し入れから引っ張り出し、玄関から順にそれはもう丁寧に掃除していくのである。そうしていると得てしてなんだか懐かしくてセンチメンタルになってしまう思い出の品々に出くわす。かくしてこの年末大掃除なるものは丸一日かかる大仕事なのであった。

玄関では一回生の時に購入した、血迷っていたとしか思えない奇抜なデザインのスポーツシューズが靴箱の奥底から出てきた。三年間の大掃除では見逃されていたのかもしれない。銀色の革張りのボディに、金色のラインをあしらったものである。今はこのようなむさくるしいことになってしまった私とはいえど、あの頃はまだファッションなるものに関心を持っていたものである。直截にいえば、モテたかったからだ。
ちょうどこの靴を買った頃だった。そのような希望が、学生の本分を失念した蒙昧なものであることに私は気付いたのだ。異性との交遊にうつつを抜かしていてはこの貴重な四年間を無駄にしてしまう、それでは高い金を出してくれている両親に申し訳が立たない、そう考えたのである。だからと言って、大学生活の大半を図書館で過ごした私の四年間に後悔はないのか問われると、正直答えに窮する。薔薇色というより桃色のキャンパスライフにも、少しは興味だってある。それを横目に必死に活字の海に浸った四年間であったのだ。

キッチンを掃除していると、即席乾麺などを無造作に放り込んでいる段ボール箱の中から賞味期限切れの粉末のスポーツドリンクの素を発掘した。これも一回生の時のものである。私が大学に入って初めて風邪をひいた時のことであった。それをどこから聞いたのか、はたまた私が知らずテレパシーででも発信していたのかは定かではないが、同じ講義を取っていた女の子が私の家に届けてくれたものである。確か風邪薬と一緒に渡してくれたように思う。風邪薬はあまりにも病が辛かったので飲んでしまったが、スポーツドリンクの素の方はなんだかもったいなくて飲めなかった。家族以外の女性から優しくされたことなど今までの人生で無かったのだ。
その女の子は華奢だった。スカートは長いものしかはかなかったのでその時はわからないが、ジーンズなどを履くとその足の細さは大学構内で目立つほどであった。その細くしかも長い脚で風が地面を撫ぜるように音もなく歩くものだから、存在自体誰にも気づかれないほどである。彼女が細いのは脚だけではない。肩や首の線なども、他の女性などと比べると明らかに痩せていて本人もそれを気にしているのか、いつも少し分厚い生地のシャツを着ていた。それでも彼女の細さは隠せるわけもなく、その繊細な体のラインは彼女の周りの空気まで白く滲ませてしまう程、儚かった。実際、いつも遠くのほうに視線を向けていて、あまり人と交わらないような人だったのだ。そのような女性だから、軟派な男などは声をかけにくかったのだろう、その美しい容貌のわりにはあまり近くに男がいることはなかった。そんな彼女がある日、私に声をかけてきたことがあった。
「本、好きなの?」
私が四六時中本ばかり読んでいることは、当時からクラスでも有名だった。読書が面白くて仕方ない時期だったように思う。
「ああ、読むようになったのは最近だが」
「何か、貸してほしいな」
「わかった。今度何冊か持ってこよう」
「ありがとう」
彼女はその時私に向かってほほ笑んだ。桃色の唇が優しくカーブを描いていた。はじめて見た彼女の笑顔はそれはもうとびきりに美しかった。百合の花が揺れるような、などと表現すると笑われるだろうか。しかし、私だってたまにはそんな繊細な表現もしたくなるのである。文学青年であるから当然のことだ。ともあれ、その日から私と彼女は時折話をするようになっていた。
しかしその女の子は、私の風邪が治った頃に交通事故で死んでしまった。夏のとても暑い日だった。私はその話を聞いて、胸が張り裂けそうになったのを覚えている。私は彼女に惹かれていた。

そんな忘れかけていた思い出が思いがけず段ボール箱から出てきたものだから、少し涙してしまった。不覚である。賞味期限切れとはいえさすがにこれは捨てかねたので、また即席乾麺の下に戻しておいた。
次に冷蔵庫の中を点検した。改めて見てみると冷蔵庫の中というのはどうしてなかなか散らかっているものである。いつか使うだろうで、もう既に何か月もたったキムチの素や浅漬けの素。知らず知らずのうちに奥底に追いやられて人知れず萎れてしまった奴ねぎ。そして極めつけは二回生の夏ごろから我が家の冷蔵庫に鎮座まします卵である。うっかりしていて賞味期限を超えていた卵を発見した当時の私は、
「卵は、放置し続けるとどうなるのか」
という素朴な疑問を抱いてしまい、その結果その時の卵が未だに放置されているのである。この卵の行く末については、当時侃々諤々の議論があったものである。時間の経過に従って内容物が腐敗することであの強固な殻がぶよぶよと軟化してしまうという説や、殻が軟化することなどあり得ない、ある日突然クシャっと崩れてしまうに違いないとする説、いっそもう有性卵になってしまって雛が生まれるのだという説まで飛び出したものである。しかしながら、どうしたわけか、それからその卵は外観上何の変化もないまま二年の時をこの冷暗所で過ごしている。そろそろこの研究にも目処をつけた方がいいのかもしれないなと私は決心して、二年前にこの卵を産んでくれた鶏に謝罪をして他のものと一緒に廃棄処分とした。

私の年末大掃除の旅は遂にリビングに到達する。クローゼットとは名ばかりの衣類置き場を整理していると、またもや過去の遺物に対面した。これまた奇抜な、今度はパーカーである。真っ赤なそれは、ジップの周囲に鋲が打ち込まれており、なんともパンキッシュな出で立ちをしている。確かそれは、一回生の終わりごろにとある古着屋で見つけた品だ。その見た目の尖鋭ぶりに当時精神的に尖りに尖っていた私はこれが噂の百年の恋かと言わんばかりに打ちのめされ、即断即決で購入したものである。先ほどの銀色の靴といい、このパーカーといい、精神はやはり外見にまで表出するものだということが、しみじみと感じられるではないか。何をそこまで尖っていたのか、と振り返ってみると、いやはやひたすら赤面する限りである。
とにかくあの頃は、なにかとイラついていたことは覚えている。食堂でレシートをポイ捨てする輩に憤慨し、図書館でぺちゃくちゃと無神経にしゃべり散らす輩に憤怒し、本など読んでも何の意味もないと嘯く輩にいっそ憤死してやろうかと思った。そして何よりそのような怒りを相手にぶつける度胸のない自分に一番腹が立っていた。所詮、臆病者の戯言でしかないではないか、と。それでも私はぶつぶつと何やら唱えながら活字の世界に籠りきっていた。そこに何かある、と私の第六感が喚き続けたのである。あまりにも喚くので時には彼を叩きのめして口をふさぎ、常々ないがしろにしてしまっていた五感とともに、気の赴くままに放蕩の限りを尽くしたこともある。といっても元来が紳士的な私であったから、放蕩の限りと言っても酒を浴びるように飲む程度ではあった。それでもとにかく、
「私は世界を断固否定する!」
とか何とか言って周囲に敵意をむき出しにして、そう剥きすぎてグロテスクですらあるほどに剥き出しにして、私は日々を生きていた。

そんな私の棘を根こそぎ引っこ抜いたのが、思えばあの郷田であったのである。わたしは当初彼を心の底から軽蔑していた。なぜか。それは阿呆だからである。学生の本分たるべき勉学を疎かにし、徹頭徹尾享楽に耽りに耽るあの男を、私は忌み嫌っていた。そういっても全くもって過言などではない。そのような彼に対する評価が、一八〇度とは言わずとも一五六度ほど変わったのは出会ってしばらくしてからのことである。
私は脳髄から発熱でもするのではないかという程に思い悩んでいた。四六時中、自他問わずに苛立ちばかり覚えていた私は、遂にいったいぜんたい自分が何に苛立っているのかということを見失ってしまったのである。気づけば毎晩何かしらの巨大な組織に命を狙われるという悪夢ばかり見るようになっており、そのせいで寝不足ですらあった。それがさらなる精神的苦痛を加えていたことは言わずもがなである。私の鬱屈し、あまりにも屈したがゆえにそのまま筋肉が硬直してしまったような精神は、その肉体にまで浸食し、四月も終わる頃にはたびたび左胸に激痛を覚えるほどに私は衰弱していた。

その苦痛に耐えかねた私は、いつもは図書館に向けるその足を、大学の近くに流れる川へと向けた。清澄な空気を胸いっぱい吸い込めば、このなんだかわからぬ靄も晴れるであろうと思ったのだ。私は人気のない河原に降り立った。そこは普段は無知蒙昧軽佻浮薄の連中が春の陽気に誘われて不埒な遊行に興じる定番の場所であった。しかし幸いなことに、その日はそのような輩は一人として見えなかった。手頃な岩に座って、
「私はこの滔々と流れる川に一石を投じる。何たる英雄的メタファーであろうか」
などと意味不明なことを呟きながら、手近な石ころなどをポーンと川の流れに投じていると、向こう岸の森の中から河原に降りてくるものがある。このまま熊にでも食われて非業の死を遂げるの悪くはないかなどと思い立った私は、力いっぱいそちらの方に石を投げつけた。
「さあ、かかってこい!」
半ば自棄を起こした私はそう叫んで、命をかけた戦闘に向けて自らの精神を鼓舞したのである。しかし、森から這い出てきたのは熊などではなかった。さらに言えば四足歩行の生物ですらなかった。つまりはそれこそが、昼飯を終えた郷田であったのである。
「何すんねん、めっちゃ痛い」
彼はその丸太のような腕を抑えて河原に降り立った。ものすごく悲しそうな顔をしている。まさかそんなところから人間(のようなもの)が現れるとは思いもしなかった私は、彼の肉体的痛苦に対しての全責任を自らが負っているにもかかわらず、狼狽のあまり二の句どころか一の句すら口にできなかった。正直得体のしれない目の前の生物に怯えていたのである。
「かかってこい、て……。意味わからんのやけど」
「う、うるさい! どうしてお前がそのようなところから出てくるのだ! 不条理極まりない」
私は狼狽していたために、極めて身勝手無責任な言葉を吐いた。そんな私を彼は何を言うでもなく、何かするでもなく凝視していた。今もってあの時彼が何を考えていたのかわからない。しかし、その瞳は何も語っていないようでいて、すべてを語っているような、そんな思いを抱かせるものだった。少なくともあの時の私にはそう見えた。あの野性児のことだ、本当に何も考えていなかった可能性だって大いにある。だが私は、その視線に向かって焦るように叫んだ。

「私の何が悪いのだ! 私は正しいことを言っているだけだ! 正しいことをしているだけなのだ! なのになぜ責められねばならない! なぜ疎まれねばならない! 私はもっと認められてしかるべきなのだ!」
かかってこい、よりも脈絡のない言葉を私は吐いた。多分、その時、ずっと思っていたことを吐きだせたのだろう。なんだかすっきりしたのを覚えている。意味不明の私の叫びを、目の前の男はじっとその視線をずらさずに聞いていた。そして私がほかにもとにかく何かしらに対する罵詈雑言を吐き終わった後、彼はほほ笑んでこう言った。
「自分は、誰かのこと、認めたったんか?」

男は私が返答をする間もなく、またもと来た森の方へ帰っていった。