『岸田アパート物語』5号室
私がそう口にした途端、香織嬢は我が意を得たりといわんばかりに口角をあげ、私の胸倉をつかんでこう言った。 「上等だ」 私は様子のおかしい里美ちゃんを森野が介抱しているのを見届けて、負け戦の場へと身を翻した。相手は底なし沼の香織嬢である。死なばもろとも、という覚悟すら持ってはならぬ。…
私がそう口にした途端、香織嬢は我が意を得たりといわんばかりに口角をあげ、私の胸倉をつかんでこう言った。 「上等だ」 私は様子のおかしい里美ちゃんを森野が介抱しているのを見届けて、負け戦の場へと身を翻した。相手は底なし沼の香織嬢である。死なばもろとも、という覚悟すら持ってはならぬ。…
「どうした」 「草さん、飯食った?」 「いや、まだだが」 「里美ちゃんが、カレー作りすぎたから岸田で食べませんか、やって」 「頂こう」 「おっけー、米持って来てくれる」 「うむ、構わん。何合あればいい?」 「六合ぐらいいると思う」 「炊飯器はよいか」 「それは大丈夫。郷田のんと俺…
「にしても、森野の料理はほんとに美味しいわね」 そう言ったのは香織嬢である。 「どうして彼女ができないんだろう」 これは岸田定番の話題である。森野は顔よし、スタイルよし、頭もよければ性格もいい、料理も美味いしスポーツもできる。服に気を使わないところが玉にキズだが、本当に素晴らしい…
私が貴重品の移転作業をしながら、昔の甘酸っぱい思い出に鼻先をツンとさせていると、香織嬢がスーパーから帰ってきた。 「お、いいにおいだ」 クンクンと、その端正な鼻先で森野の料理のにおいをかぐと、香織嬢は満足げに郷田の部屋に戻っていった。両手には凄まじい量のアルコールがぶら下がってい…
一一月三〇日. 宙に舞ったのは皿だけではない。無論、そのうえに載っていた出し巻き卵も一回転ひねりを加えて見事頭部から着地した。憎らしいことにプラスチック製の皿は、さも私を嘲笑するかのようにふてぶてしくアスファルトに横たわっている。この予期せぬ転倒について、私には何ら責任などないと…