「にしても、森野の料理はほんとに美味しいわね」
そう言ったのは香織嬢である。
「どうして彼女ができないんだろう」

これは岸田定番の話題である。森野は顔よし、スタイルよし、頭もよければ性格もいい、料理も美味いしスポーツもできる。服に気を使わないところが玉にキズだが、本当に素晴らしい玉にとっては、多少の傷などはむしろその価値を高めるのである。しかし、ここまでのスペックを誇るというのに、彼には恋人がいなかった。
「求愛されたりはするのにな」
「あんなんはもう、迷惑以外の何もんでもないわ」
これだけの男である。なにも女性がほったらかしにしていたわけではない。飲み会の席から無理やり連れ出され、店の外の草むらで手篭めにされかけたこともあれば、ぬぼーと大学構内を歩いていると突然接吻されたこともあるという。

あるいは家に帰ると使い古した愛用のトートバックにラブレターが入っていたということもあった。それは恭しく私が朗読の役を仰せつかり、完全に酒の肴にしてしまった。なにも私がモテない腹いせをしたいわけでもなく、その女の子に恨みがあったわけでもない。言い出すのはいつも森野なのである。
「一人で読むんは恥ずかしいから、みんなで読もう」
そんなシャイな彼であったが、生涯自分から女性に惚れたことがないらしい。曰く、
「一人の方が楽やん。」
もはや仙界の住人かと思う程の煩悩の払いぶりである。近頃「草食系男子」というのが流行っているが、岸田では森野の事を「水呑み男子」と呼んでいる。彼は草さえも食べぬ男なのだ。

この話題はいつも香織嬢が、
「いつかいい人が見つかるはず」
という無責任極まりない御託宣を与えて終幕となる。この日もいつ戻りの結末を迎え、そのあと彼女は炬燵に肩まで入って眠り始めた。それを見た郷田も、もはや卓の毒牙おそるるに足らずと踏んだのか、香織嬢の横で居眠りを始めた。そのあたりで今日の会はお開きにしようということになり、みなが帰り支度を始めたころ、私の袖を引くものがある。何奴かと、酔いと眠気で垂れに垂れた眼を向けると、里美ちゃんである。
「どうした」
「今日は、まだ帰りたくありません」
小さな声である。なんだか少し艶っぽい台詞のように思えるが、相手が里美ちゃんではまったくもって艶消しである。確かに彼女は美しい。しかし同時に奇行を繰り返す魔女である。何と引き換えに契約を迫られるかわかったものではない。
「もうすこし、飲むか」
「はい、のぞむところです」
そりゃそうだ、君の望みに私が応えたのだ、と言いたかったがぐっとこらえた。弘毅がバーバラを送り、卓は次の日が早いというので帰宅することになった。里美ちゃんが残るというのを受けて弘毅が少なからず名残惜しそうな顔をしていたが、弘毅が里美ちゃんを見る視線を徹底して彼女が回避するために、弘毅は意気消沈してあきらめた。ふられたばかりだというのに、なかなかの立ち直りの早さである。ましてや相手はかつて恋した女性、もはや煩悩の塊ではあるまいか。こうなるとなんでも洗い流せる便利の有能さも考えものだ。

片付けられるものは片付けた後、私と森野を相手に里美ちゃんは飲みに飲んだ。深夜は三時になった頃に私が、
「そろそろ眠い」
というと、
「草さんも、まだまだですね」
とはっきりした発音で言うものだから、私も躍起になって応戦していると、四時になる頃に森野がおもむろに立ち上がって自室に戻っていった。それでも里美ちゃんは飲むのをやめず、学生生活とは何ぞやということについて、私達は一晩中侃々諤々の議論を戦わせたあげく、朝を迎えるにいたった。それに気付いたのは外が薄蒼くなってきたからである。里美ちゃんはそれを見て、言った。
「草さん、おはようございます」
「うむ、おはよう」
これ以上早い「おはよう」はあるまい。
「朝日でも見に行きましょうか」
「そうだな、せっかくの朝だからな」

そして私達は朝日を見に行った。岸田からスーパーのある通りに出て、道沿いに東に向かう。交差点をかまわず直進し、道なりに行けば大きな川がある。そこの橋に我々は立った。その頃には春でもないのに、やうやうなり行く山ぎはが美しい情景を私達に見せてくれていた。千年以上も昔にここに人が住んでいたのかは知らないが、そのような時代にもこの情景はあったのかと思うと、柄にもなく胸が昂揚する。冷たい師走の空気を、鼻の穴から吸い込んでいると、醗酵した揚句に腐敗してしまった私の脳髄も少しは冴えるかと思う。それほどに清澄な空気である。
その時隣の彼女が橋の欄干に手をかけた。一瞬飛び降りるのではないかとあわてたが、彼女がそのあとに口にしたことの方にもっとあわてた。
「私は! 森野さんが好きだ!」
と叫んだのである。何処にも歪む所のない真っ直ぐな、その時間の空気と同じに清澄な、胸に響く声であった。私が茫然としている間、彼女はずっと同じことを叫んでいた。しばらくして、冬の空気に喉が渇いたのだろう、彼女はむせて叫ぶのをやめた。ケホケホとひとしきりむせた後、彼女はあの素敵な笑顔を顔面にたたえながら、少し涙ぐんだ目で私を見た。顔が寒さのせいか真っ赤である。私は私のすべてを彼女に見抜かれているような気がした。なぜだかは分からない。しかしこのままではだめだ、と思った。そしてその結果、私も叫んだのである。
「私は! 佳菜子さんが好きだ!」
それに呼応して、また里美ちゃんも叫ぶ。
「私は! 森野さんが好きだ!」
馬鹿で間抜けの大学四年と、奇行癖はあるが素敵にまっすぐな大学二年の男女が、朝の橋の上で、朝日を浴びながら何やら叫んでいる光景はなんとも奇妙であったろう。しかし私達はとにかく一生懸命であった。朝日がどんどん上がってくる。私は叫んでいるうちに、ひょっとすると私の叫び声が太陽をぐんぐん空へ引き上げているのではないか、と思うようになっていた。里美ちゃんもそうであったと願いたい。私達は結局太陽がすっかり姿を現すまで叫び続けていた。

一晩中飲み続けた挙句に延々と叫び続けたせいで、私達は疲れ果てていた。当然喉も枯れている。声帯が荒れているのが分かる。しかし、私達は岸田までの帰り道、とてもすがすがしい気持ちで歩くことができた。その道中私は彼女の恋を影ながら応援することを宣言し、彼女も私の恋を影ながら応援すると宣言してくれた。なんだかいけそうな気がする、と何の根拠もなく、しかも何がいけるのかも判然としなかったが、そう思った。
岸田に帰ると森野が出てきて、
「おかえり」
と言ったので、私達は声をそろえて、
「ただいま!」
と返事した。
「仲のええのは、ええことや」
と満足そうに彼は言ったあと、味噌汁の火ぃ止めな、と言ってキッチンの方へ戻っていった。見ると、里美ちゃんはなんだかすがすがしい笑顔である。私達はハイタッチをして、各々帰宅した。

ところで、橋から岸田への道中聞いたところによると、里美ちゃんの、
「ジャガイモ食べたいです」
は彼女にとって別段突発的な発言ではなかったそうである。その証拠にその日彼女が張り付けていた絵を見ると、ジャガイモに手足が生えた奇怪なものばかりであった。
「描いているうちに食べたくなったのです」
とは、言うまでもなく、彼女の言である。

一二月二〇日.

ジャガイモパーティーから二週間ほどした師匠の駆け足の息も切れそうな頃、私のアパートの駐輪場に突如謎の紙片が出現した。出現と言ってもそれはごくごくつつましやかで、私がこのアパートに入居した頃からある段ボールの内側に貼り付けてあったのである。見つけた瞬間は何かの伝票かと思ったが、その紙の真新しさがその仮説を却下する決定打となった。当然私は気になった。何が気になったのかと言えば、もちろんそこに何が書かれてあるかである。

私は、以前タツヤで借りた『メカは意外と泳ぐのが遅い』というスパイものの映画で見た「スパイ募集」の張り紙を想起した。その広告は一平方センチにも満たないもので、それを発見できたからにはスパイの素質があるはずだ、というなんとなく正しそうなロジックで主人公がスパイとして雇われる……といった映画である。
私は自分がスパイとして訓練され、街の家々の屋根をヒョヒョイと渡っていくのを想像してワクワクしてきた。小学校の卒業文集の「将来の夢」欄の所に野球選手やサッカー選手、花屋さんやお嫁さんを同級生が記しているところに、何の奇も衒わずに「スパイ」と書いた少年が私であった、というわけではない。とはいえ大学も卒業間近というこの時期に、そんなワンダフルな出来事が舞い込むというのなら、それに飛び込むのもやぶさかではない。刺激に満ち溢れる人生こそ最良の人生であるとするなら、このチャンスをものにせずしていかにして最良の人生など送れようものか。私は思いきって段ボールの内側を覗きこんで、その文面を読んだ。そこにはこのように書かれていた。

これを見つけ、そして読んで頂いた方へ。

わたくしは、この近くの大学に通う学生でございます。毎日大学に行き、色々の先生方のご高説を賜る日々はなんとも甘美な至福の時間であります。このような時間を与えてくださっている両親には、いくら感謝してもしきれないでしょう。しかしながらその反面、この生活は単調であることもまた確か。わたくしのなかの刺激を求めるもう一人の自分が、もはやこのようなのんべんだらりとした生活には飽いたぞと、わたくしを責め立てるのでございます。
わたくしは勤勉さの足りない部分があるのかもしれません。すなわち、このもう一人のわたくしの抗議を受け入れることにしてしまったのであります。その結果がこのお手紙。これをお読みになった何処の何方ともわからぬお人と、この段ボール箱の内側を通して文の交換をしてみたい、わたくしはこう考えております。お願いにございます。このわたくしの奇妙な遊戯にお付き合いくださいまし。

好奇心旺盛なわたしより

読み終わった私は、なんだか妙な心持になっていた。厄介なものを読んでしまったぞという思いと、スパイ生活とはまた一味もふた味も違う秘密な遊戯への興味である。何だかこう書くとまるで乱歩の奇天烈世界のようにも思えるが、何のことはない、単なる文通である。そう考えれば何とも健全な娯楽ではなかろうか、そうに違いない。
私はこの手紙の主に返事を書くことにした。とはいっても、博覧強記、服を着た字引と誰かしらに言わしめた私とはいえど、その場ですぐに文章を起こすのは困難を極めた。なにしろ相手は顔も形もなにも知らない、下手をすればただの変質者である。そのような人間相手の手紙はおいそれと書けるものではない。私はひとまず、飯を食うことにした。そして図書館で読書に耽る予定を、食堂で手紙の文面を考える予定に変更した。

今日は土曜日である。休みの日の食堂は適度な静けさを保っており、このような考え事するにはなかなかもってこいの場所と言える。逆にこういう時に図書館などに行くと、何も思いつけないで苛立ちのみ胸に抱いてすごすごと帰宅することになる。図書館は静かすぎるのだ。なにも女学生が戯れるのを見たいがためでは断じてない。そう、断じて。
私はごくオーソドックスなメニューをトレイに載せてレジに向かった。レジ台にトレイを置いて、かばんの中から財布を取り出していると、草さんだ、と何者かが私を呼んだ。
「草さんも、食堂来るんだねえ」
そこにいたのは真中であった。彼女は岸田に出入りする人間の一人である。郷田と同じ三年次編入組であり、あと一週間もすればオーストラリアから帰ってくる岸田一の怪人、千沙と同じオランゲハイツの住人である。森野同様相当に出来た人物で、千沙の奇想天外な狼藉も笑って許し、階下に住む摩訶不思議な後輩の面倒も嫌な顔一つせず見てやる素晴らしい女性である。笑顔が素敵なことも特筆に値するだろう。
「どういう意味だ」
「だって、草さん、人多い場所嫌いでしょ」
「人を対人恐怖症みたいに言うものではない」
「違うの?」
「……」
私は答えられぬままレジを通過した。確かに私は人混みが大嫌いである。生まれは日本でも随一の大都市であり、育ちも同じであるから、人の多さには慣れていてしかるべきだと思われがちであるが、とんでもない。それどころか頭を掻きむしりたくなるほどに人混みが苦手なのである。

一年の夏ごろであったろうか、半年ぶりほどに帰省した時のことである。高速バスを降りて駅に向かおうとしたところ、とてつもない人の波がうねうねと駅前の道をなめていた。その日が休日であったせいもあろうが、そのような人の量は私の故郷ではまったくもって物珍しいことではない。しかし半年近くもその現象から遠ざかり地方大学の学生町に生きていた私にとって、これはもはやシェルショック並の衝撃である。精神崩壊の危機と言えよう。
とはいえ、そこはやはりこの私、そう簡単には頭を垂れることはせぬ。しばらくは唇をかみしめて駅までの道のりをボストンバック片手に歩いていた。ある交差点に差し掛かった時に、運悪く私の進行方向がちょうど赤になってしまった。この街でこの季節に赤信号に捕まるというのは、片田舎から出てきた人間にとってはもはや生き地獄である。無論その時の私にとってもそこは見渡す限り熱帯林のジャングルのように思われた。
信号待ちの列に並んでいると、当然次から次へと私の後ろにも列ができる。それが整然と並んでおれば私にも耐えられたろう。しかしこの街の人間たちは、世界一住民の歩行速度が速いと言われるほどにみなせっかちである。それゆえに、とにかく後ろからものすごい力で押されるのである。最前列の人を単なる赤い肉塊にしたくなければ、前の人はぐっと堪える必要がある。
しかし、ただでさえヒートアイランド現象やらなんやらで気温が異常に上がっているというのに、人口密度の極めて高い状態でそのような物理的接触や圧迫を受ければ、もはや耐えられないほどの汗が出る。そのような人間が自分だけではないのだからたまったものではない。
暑い臭い狭いの三拍子が、何も愉快なことなどありはしないのに盛大にパンパンパンと荒れ狂う(私の耳にはその三拍子が確かに聞こえた)。私の耳元で延々とパンパンパンが聞こえるものだから、妙に私も楽しくなってしまって、私はその場で踊り始めた。そしてそのまま倒れたのである。奇妙な踊りを見ず知らずの群衆の面前で披露した挙句に卒倒した私は、以来夏の帰省は決してすまいと心に誓った。その誓いは厳密に守られている。

そんな話はさておき、文通である。白米を咀嚼しながらそのことを考えていた。なにしろはじめてのことだ。それを考えるだけでなんとなく胸が高揚する。それにしても、あの文章をあんなところに書いた人間とはいかなる人物であろうか。流麗な筆跡と上品な言葉づかいから、十中八九女性であることは間違いない。というよりそうであることを切に願う。
生まれて初めての文通の相手が、あんなに美麗な字を書く男だなどとは、断じて言わせるものか。怪人二十面相のような奇妙奇天烈摩訶不思議な人物が、私と言う稀代の知性を抹殺するべく仕組んだ巧妙な罠か、という考えが一瞬だけ脳裏によぎったが、そうそうに自分の価値を客観的判断の俎上に載せた結果、そこまでの人物ではないと断定した。不服申し立ては敢えてすまい。
ではどのような女性かという事だが、その文面を信じる限り彼女は大学生である。そしてその文字から察するに相当の知性をもった女性であるに違いない。もはや間違いない。ただ、一面ではあのような不特定の人物に対して文通を図ろうとするほどのエキセントリックな側面も垣間見える。そこで私の人物データファイルの中で物凄い速度で浮上してきたのは、佳菜子さんである。
「まさか……」
と思わず口にしていた。しかしそんな都合のいいことはあるまい。それまで何の音沙汰もなかった彼女から、こちらが再度心を寄せた時期になってまた連絡を取ろうとしてくるなどということは考えにくい。しかもあの妙な方法でだ。

第一、私と連絡を取ろうと思えば携帯電話の番号もアドレスも私は変えていないのだから、それで連絡が取れる。もし乙女特有の潔さで(女だって年をとれば未練がましくもなるだろう。後がない、ということは人を愚かにするのである)私の連絡先を削除していたにせよ、私の家の場所も知っている筈で、当然学校ででも会うことがかなわないわけではない。私の図書館通いも彼女は十分知っている。これらのことから、彼女がわざわざ奇妙な手段を用いて、このような唐突な時期に私にコンタクトをとる可能性は皆無に等しいことが分かる。何者かが彼女をたぶらかしてでもいない限り。
私は自分で自分の分析力に嫌悪した。あわよくば彼女と連絡を取り合っているという淡い喜びに浸っていたかった。しかし、私の知性が邪魔をした。この悲劇的知性! しかも同じ理由で、私が容姿や内面を知っている女性が、この文通の相手である可能性も灰燼に帰した。もはや私の眼前には茫漠たる闇がひろがっているだけである。眼を凝らしても何も見えず、あるのはあの段ボール箱に書きつけられた怪文のみ……。
「むう……」
チキン南蛮という名前からしてどうやら遠く海の向こうからやってきたらしい食べ物をかじりながら、私は呻いた。自分が今とても恐ろしい道に足を踏み入れようとしているのではなかろうか、という不安に襲われる。それこそ新手の出会い系サイトか何かで、私のような目ざとい人間をターゲットにしてあのような手法をとっているでは、とすら思われてきた。

はじめの文章に私が返信を書いたあくる朝、私は胸をドキドキソワソワさせながら駐輪場への階段を降りた。するとそこにはすでに彼女からの返信があるではないか。返信にはより詳しい彼女のプロフィールがあった。私の文章から有り余るほどの誠実さを感じ取った彼女が、「貴方なら大丈夫」と教えてくれたのであった。
その彼女の思いにこたえるべく、私も自分の趣味や好きなものなどについて書き、彼女の美しい筆跡をさりげなく賞賛した。そうして何度か文通が続いたある日、彼女からこんな文章が送られてきた。

わたくしがあやまってぶつけてしまった車が暴力団員の方のもので、弁償を要求されています。現金で三百万円支払うか、わたくしのカラダで払えと要求されています……。わたくし、そのような大金用意できませんし、カラダで払おうかと思っています。そんなわたくしとでも、また文通してくださいますか?

私は暴虐邪知のこの暴力団員に怒り狂う。そして書きつける。

私には一年生の時からこつこつためた貯金がちょうど二百万円ほどございます。是非あなたのお役にたてていただければと思います。ぜひご口座を教えてください!

その次の返信には神のような私の慈悲に感涙をむせぶ感謝の言葉が並べられ、その下に慎ましやかに彼女の口座番号が書かれている。私はそれを見た足で銀行へと走り、直ちに振り込んだ。その旨を段ボール箱に貼り付け、そろそろ感極まった彼女からの「直接お会いしとうございます」を心待ちにして、翌朝駐輪場へと駆け下りるが、そこに彼女からの返信はない。そのあくる朝も、その次の朝も、一週間たっても音沙汰は蚊の鳴くほどもない。私はだまされたのである。

なんてことになるのではないかと、私は一人この万巻の知の詰まった頭部をかきむしった。気持ちの整理をするためにひとまずキャベツを食べたが、なかなか動悸がおさまらない。勢い余って口の中でプラスチックの箸がミシっと音を立てたので、ますます無駄に鼓動が速くなってしまった。繊細なハートの持ち主はこれだからつらい。

散々と様々な可能性に思いを巡らした揚句に、私はとりあえずカネかモノを要求されるまではこの秘密の遊戯を愉しんでもよい、但し深みにははまるべからずと自分を納得させて、文通を始めることにした。始めの手紙である。軽いプロフィールと趣味などについて書き、返信が来ずとも落ち込むでないと自分に言い聞かせながら、段ボールにわが人生初の文通のための手紙を貼り付けた。

ひと仕事終えた気になって自室に戻ると、はかったように携帯電話が私を呼んだ。
「へいへいへい」
とその呼び声に返事をしながら液晶画面を見ると、森野である。