店長と、彼女が出会ったのは、そう秋口だったか。青々と嫌みたらしく茂っていた夏の緑葉が、少し名残惜しげな流し目でもって頬を朱に染めていた。そんな木々のしおらしさに、もう少し愛してやればよかったな、と人々が後悔し始めたころ、彼が近くのスーパーにやってきた。やってきたといっても、別にふらっと立ち寄ったわけではない。新人店長として赴任してきたのである。小夜子は、その店の常連だった。始めのうちは、このうだつの上がらない、華奢な男に、なんの感慨も感動もなかった。むしろ感動的なくらい、なにも思わなかったといっていい。それがある時である、彼を近くの本屋で見つけたのだ。

彼は、二冊の本を手にとって、何やら唸っていた。こんな男がどんな本を読むのだろうと思うと、なんと料理本のコーナである。本格和風料理か、本格中華の本で迷っているらしい。見るからに優柔不断そうな男だもの、と彼女はファッション誌のコーナに向かった。しばらくそこでどの雑誌を買うかを検討していると、さきほどの男が後ろを通って行った。今度はどこに行くのだろうとみていると、そこは「人文学」となんの面白みもない字体で書かれた場所だった。スーパーの店長と「人文学」という、突飛といえば突飛な組み合わせに、なんだか不思議な気持ちが、彼女を微笑ませた。彼はそこではあまり悩まず、平積みになっている本を手に取ると、値段も見ずにこちらに歩いてきた。レジがファッション誌のコーナのすぐ近くにあるのだ。彼女はあわてて視線を持っていた雑誌に戻す。星座占いのページで、確か恋愛運は最悪だった。あーあ、と思ったのも覚えている。その矢先だった。

「いつもありがとうございます」

と男がこちらを覗きこんで、そう言ってきたのである。

「え?」

「僕のお店、よく来てくださってますよね、ほらあのスーパー」

彼は満面の笑みである。小夜子は驚いた。こんなにうだつの上がらない男が、客の顔を覚えているとは思わなかったからだ……とそこまで考えて、ひょっとして客の顔ではなく、私の顔を覚えていてくれたのかしら、とふと思い至った。

「覚えてくださってたんですか?」

「ええ、そりゃもう」

「ありがとうございます、本はお好きなんですか」

彼女は彼の手元を指して言った。

「ええ、大好きですね。まぁこっちは料理の本なんですけど」

男は手元の本の表紙を彼女に向けた。

「あ、中華にしたんだ」

彼女は思わず口にしてしまった。

「え?」

当然の反応を、男はした。

「いや、さっき実は悩んでらっしゃるのを見てしまって……」

たぶん自分の顔は真っ赤だろう、と彼女は思う。頬が少し熱かった。

「ああ、それは、お恥ずかしい」

男も顔を赤らめて、そう言った。素直な人なんだな、と小夜子は朱に染まった顔を下に向けて感じたものである。

妙な、沈黙が、流れた。その空気を打破するために、小夜子は声を裏返しにして、なぜか、四ヶ月後の今でさえ理由は明確ではないが、

「何か、おススメの本、ありますか?」

と言った。その男、つまり店長も虚を突かれたが、彼女自身も妙な話だが虚を突かれた。どちらにとっても思ってもいなかった質問だったのである。

「え、ええ。どんな本を読まれるんですか?」

そうですねぇ、とそこからは二人の距離は、形而下的にも形而上的にも近づいて行った。たかがおススメの本を、店長が小夜子に紹介して、じゃあ読んでみます、と三冊ほど購入し、店の前で別れただけの話である。それだけだったが、彼女は思いのほか店長が男らしい判断力や優しさ、それに加えて博識であることや、背が高いことを知ったし、彼は小夜子が見かけよりも「女の子」らしく、時折子供っぽい笑顔を見せることや、見かけどおりに芯が強いところも知ったし、案外いろいろな文学を読んでいることを知ったのだ。

あの時は、柄にもなく小夜子は歩調が軽くなっていた。雑誌の占いなんて当らないものだな、と今更のようなことを思ったものである。

小夜子は食器洗いを終えると、店長のいる部屋に入った。彼はテーブルの上で日記をつけている。店長になってから毎日書いている、といつか言っていた。落としていた視線を上げると彼は、

「あ、小夜子さん、エプロンがつけっぱなしだ」

と言った。

「あ、うん」

「そうだ、残りのビール飲んじゃう?」

「そうだね、飲もう」

「小夜子さん、大丈夫?少し酔っているんじゃない?」

「全然そんなことないけど、どうして?」

「少し、声のトーンが低い」

「大丈夫だよ」

「そうか、なら飲もうか」

彼は冷蔵庫のある方へ向かう。ビールを出しながら、こういった。

「何か、作ろうか?」

頭は冷蔵庫に入れたままである。

「だしまき玉子がいい」

「了解」

彼のその一品は、本当においしい。そこらの居酒屋なんかメじゃないと、彼女は思っている。彼の家の冷蔵庫には、常に水出しのカツオと昆布の合わせだしが入っていて、どちらも彼が費用対効果を考え抜いて選んだ品である。それをごく普通の卵に混ぜ、少量のしょうゆを加えて焼くだけなのだが、それがとてつもなくおいしいのだ。店長は火の通し方がキモだと考えていた。火を通しすぎてもダメ、しかしあまりにも火を通していないと卵が固まらないで、箸でつかむときに崩れてしまう。その中間の、絶妙なタイミングで玉子焼き機から皿に移し、余熱まで計算してテーブルに出さなければ、ベストにはならない。いくら小夜子が美味しいと言っても、彼はベストのものでないと納得しない。厄介な性格なのである。

店長が料理をしている間、小夜子は彼の本棚を物色していた。何か新しい本が入ってないかな、と思ったからだ。

あの日からしばらくして、二人は恋人同士になった。というなら、話は早いのだが、世の中というのは得てして思い通りにはならないものである。恋人へのプレゼントを買った時は、きっと喜んでくれると思っても、全然そうはならないこともある。初詣でおみくじを引いて大吉が出ても、たいていはいい年になんてならないものだ。政権が交代して、これで自分の国も変わるだろうと思っても、まず間違いなく思惑通りには事は運ばない。小夜子の恋もそうだった。

あの本屋の出会い以来、彼女も本が大好きになっていた。それまでは、あまり本は読まなかった。あの時ドストエフスキィやシェイクスピア夏目漱石の作品の内容を彼に話せたのは、高校の現代文の先生と仲が良くて、その先生の大学時代の専攻が文学だったので、よく話を聞かされていたからだった。全く読んでいなかったのだ。しかし、その時店長に勧められて買った本が、なかなかよかった。一冊は最近の小説、もう一冊が文庫本で、彼が尊敬している学者の唯一の文庫版だ、といっていたもの。もう一冊は単行本で、歴史の本だった。それまで自分が思っていた「勉強」について考え方が変わり、こんなに面白いのならもっと読んでみたい、そう思った。

彼女は、読書に慣れてはいなかったから、その三冊を読むのに三週間かかった。最後の本を読んだ翌日、スーパーで店長にあったので、

「こないだ勧めて頂いた本、やっと読み終わりました」

「早かったですね、どうでした?」

「とっても面白かったです。ああいう本が面白いって感じたの、初めてです」

「それはよかった。よければ僕の本をお貸ししましょうか」

「え、本当ですか、嬉しい」

「今日、僕、早上がりなんです。あと三〇分で帰れるので、ちょっと待っていて頂けますか?」

「はい」

彼女は思いもかけなかった店長からの積極的な誘いに、驚きはしたものの、胸がドキドキしていた。どうして自分はあんなサエナイ男に、こんなに心拍数をあげているんだろう、と一方では思いながら。

三〇分は、あっという間だった。時間というのは不思議なものである。その時の精神状態、身体状態で認知する時間は自由自在千変万化する。時間を気にするときは大抵楽しめていない証拠で、居酒屋でしらないサラリーマンに昔の若いころの話などを聞くときは、どうしても時計を見てしまう。なんでこんなに時間が経つのが遅いんだ、などと考える。その割に、途中から上の空になると思いのほか一時間ほど経ってしまっていて、うわ、もうこんなに、となるからまた不思議である。別に楽しいわけでもないのに、時間が早く経ってしまうという一例だ。

彼は真っ白なシャツにジーンズ、ビジネスバッグという出で立ちで彼女の前に現れた。髪の毛はぼさぼさだし、かけている眼鏡はどこにでもあるようなものである。当然、それを身につけている男も、どこにでもいるような男なのだ。小夜子はつくづく不思議に思っていた、自分はどうして、と。しかし、人間のこういう精神的な高揚というものに、理屈など求めるべきではない。理屈でそういう状態になるというのは、どうしても打算的という誹りを免れないだろう。人間の理性などいうものは、たいていロクなものではない。金かセックスか、それくらいしか結論として用意できない。……そんなことを小夜子が考えたかどうかは定かではないにせよ、彼女は賢明なことにその自問自答に解決を求めるのをやめた。この自問自答というやつも、答えが出ることはまずない。

「お待たせしました」

「いえ、きっかり三〇分ですね」

「性格なんですよ」

ははは、と店長は笑った。それを見て小夜子は微笑む。

「じゃ、行きましょうか」

「えっと、どちらへ」

「あれ、僕の家ではなかったですか」

この男は実はオオカミなのかもしれないぞ、と小夜子はこの時警戒した。

「よろしいんですか」

「ええ、全くかまいませんよ。あ、ご飯も食べていきますか?今日は八宝菜なんですよ」

小夜子はじっと彼の表情を観察していたが、どうみても善良な山羊にしか見えなかったので、警戒態勢を解除することにした。

「わあ、嬉しい。それってひょっとして……」

「そう、この間買った本で勉強しました」

ふふふ、と彼女は声を出して笑った。店長も微笑むのだ。

「じゃあ、お邪魔しようかしら。そうだ、店長さんはお酒、お飲みになります?」

「ええ、好きですよ、買っていきますか?」

「そうしましょう、ぜひこのお店で」

「毎度ありがとうございます」

続く