下世話な話、と前置きをする話は当然下世話なのだが、じゃあそれがすべて下品なのかと言うと、そういうわけでもない。小夜子はその時自分の下着に思いをはせた。彼女の判断力はその情報を受けて、ゴーサインを出したのである。話自体は下世話でも、聞いてみるとなんだか甘酸っぱい、穏やかな気持ちにさせるではないか。淡い恋にも下世話な話がある、という一例だ。

店長と小夜子は、黄昏の街を歩いた。涼やかな風が、軽くほてった小夜子の頬を撫ぜるのだ。店長の右手には、六缶入りのビールが入ったビニール袋が握られていた。二人の形而下的な距離は、見るからに縮まっていて、美しい小夜子が少女のように顔をほころばせて歩いているのを見、老若男女問わず頬を緩ませた。それほどに彼女は美しかった。

しかし、彼らは一様にそのあと訝しげな表情をする。無論それはその美しき頬笑みの恩恵にあずかっているのが、使い古しのTシャツのような男だったからである。と、このようにずっと店長を描写しているが、世間一般にみれば彼はそこそこの男なのだ。だがしかし、比較とか釣り合いというこの場合暴力に化ける言葉が、彼と小夜子の間に横たわっていた。スポーツの世界で「ミスマッチ」というのはチャンスとピンチが背中合わせになる状況である。それはどちら側に立つかによって変わる。しかし、男女関係における「ミスマッチ」はどう転んでもピンチでしかない。つまり、店長は圧倒的な窮地に立たされていることになる。

そんな事とはつゆほども知らぬのか、彼は最近読んだ本の話を、小夜子にしている。

「まさか、あんなに面白いなんて思ってなかったものですから……」

「で、その本は買ってしまったのですか」

小夜子は楽しそうである。

「ええ、だってT先生が姉妹篇だなんていうんです、買うしかありませんよ」

「確かに、あの人の本は面白かったわ」

「でしょう、本当に尊敬しているんです。文筆家としても、男としても」

「実際に、お会いしたことはあるんですか」

「ええ、一度だけ。僕の大学に講義されにいらっしゃったんです。それ以来、どっぷりです」

「それは幸運でしたね」

「いや、不運かもしれませんが」

そういって、彼は笑った。小夜子はそういう時の彼の笑顔が、好きだった。

ここです、と言って店長が指差したアパートは、社会人一年目の彼にしてはとてもきれいな建物で、小夜子は少し驚いた。彼の部屋は二階の角部屋、扉は西にある。

「どうぞ」

そう言って店長が扉を開けてくれる。レディーファーストなどというものを実践できる男には見えないのに、と小夜子は思ってしまった。人はみかけによらないものである。美味しそうな食べ物も実はそれは着色料がふんだんに塗られていただけということもあれば、ネットで買った洋服が、届いてみると生地が最悪というようなこともある。いかにも誠実そうな政治家も、程度はあるにせよ大抵は汚職をしているということだってある。うだつの上がらない男がレディーファーストを実践できても、何も不思議はないのである。

小夜子は、部屋に一歩入るや否や、思わずも声をあげてしまった。別に知らないおじさんがベッドで寝ていたわけではない。冒頭でも述べたように、彼の部屋は合理性を追求した結果、生活感がありすぎて逆になくなっている、というありさまなのだ。

「私の部屋よりきれい……」

という、およそ全世界の九割以上の女性が、彼の部屋に来れば吐くであろう台詞を、彼女が口にしたのも無理はなかった。

「昨日掃除したばかりなんですよ」

穏やかにほほ笑みながら、店長は彼女を中へ促した。小夜子はリビングに入るや否や、手早くある一つのものを探した。女の影である。なにもカーテンの裏とか押し入れの中、あるいは箪笥の中に、誰かが隠れているのかと思ったわけでは毛頭ない。そうではなくて、女性の写真や、女性ものの服や化粧品など、この男に女がいた場合にあるであろうものを探したのである。しかし、そんなものはどこにもなかった。小夜子は胸をなでおろす。

そんな彼女の憂慮などつゆ知らず、その後ろで店長は、

「はーっぽーさい、はっぽーさい」

と妙な節をつけながら食事の準備をしている。それに気付いた小夜子は、さすがに何もせずにリビングでくつろいでいるわけにもいかないと思い、

「あ、何か手伝いましょうか?」

と申し出た。

「ありがとうございます。でも、ここ二人も立てないんですよ。腹立たしいほど狭いんです」

と、少し顔をしかめて彼は言った。

「ぼくはここで準備しているので、ぜひ本棚でもご覧になっていてください。」

「すみません。ではお言葉に甘えようかしら」

「ええ、ぜひ」

小夜子は部屋の奥にある、店長厳選五〇冊の本棚に近づいた。それを見届けた店長は、引き続き食事の準備をする。立ち並ぶマンションの向こうから、夕日が名残惜しげに彼らを覗きこんでいた。

食事も終えた。買ってきたビールも六本飲み終えた。なのにどうにもおかしい。小夜子はそう思っていた。というのも、一向に男が自分の近くにやってこないのだ。確かに彼は自分に気のある素振りを見せたわけではない。しかし、男が女を自分の部屋に招き入れ、女がそれを受諾したということは、つまりそういうことだと考えるのがふつうである。だが、この男は、ひょっとするとその「普通」の枠の中に入っていない可能性がある、彼女はそう推測した。つまり、自分だけが勇んでいた、という可能性を検討し始めていた。

「どうですか?目ぼしい本はありましたか?」

「え、ええ。これなんて面白そう」

彼女がそう言って取りだしたのは、『黒服』という金文字が背表紙に穿たれている本だ。

「さすが、お目が高い。それはT先生が監修なさったシリーズのもので、とても面白いですよ。僕も何度も読みました」

「そうなんですか。じゃあこれをお借りしようかしら。」

「ええ、ぜひ」

この会話で、小夜子は先頃から検討していた可能性を採用し、即日決戦をあきらめた。この男は時間をかける必要がある、我慢を要する相手だと断定したのである。

ということでその日は、その本を借りて、読み終わったらまた店長の家を訪れる、という約束をして二人は別れた。店長はただただ読書の趣味の合う仲間を見つけた喜びに満ちていた。一方小夜子は、本の内容が楽しみでもあり、これからの彼との逢瀬への不安と期待に入り混じった心持だった。

現在の二人の状況から言えば、彼女の胸に去来した期待と不安のうち、的中したのは不安の方であった。そう、あれから二人の間には、何もなかったのである。心の距離が近づいていることは小夜子は確信していたが、それが男女としてなのかと問われると彼女は返答に窮せざるを得ない。その自信はなかった。

では、店長はと言うと、彼女のことを女として見ていないのか、と問われると、そういうわけではなかった。むしろ、彼は彼女にとても魅力を感じていた。しかし、どう気持ちを伝えていいのかわからないし、第一彼女のような女性が自分を男として見てくれているとは、かれには思いもよらなかった。店長は、彼女が自分を読書仲間としてしか見ていないと考えるようにしていたのである。ましてや、今日の小夜子は少し元気がない。自分といるのに飽きてしまったのかと、仕事終わりに電話など掛けなければよかったと、どうしようもない不安をかかえていた。ぼーっとテレビを見ながら、二人で一つの出し巻き卵をつついていても、なんだか今日はいつものように楽しくない。喉の奥につかえてしまって、でてこられない何かが、店長の中にはあった。はあ、とため息をついたときである。隣から、鼻をすするような音が聞こえ始めた。彼はテレビを見たまま、こう言った。

「何、小夜子さん、かぜ?」

しかし、その返答はない。仕方なく彼は小夜子の方に向き直って、もう一度同じことを聞こうとした。だが、できなかった。彼は心臓が飛び出るかと思うほど、ドキリとした。

「ど、どうしたの?なにかあったの?」

小夜子はぬぐってもぬぐっても零れおちる涙を受け止めるのに精いっぱいだった。なぜだかいつもよりも重苦しい雰囲気の中で、これまで抑えていたものが決壊してしまっている、と彼女は分析した。涙でゆがんだ視界の中でも、突然泣き出した自分を、とても優しい目で心配しながら、しかしどうしていいのかわからないといった様子で、あたふたしている店長が見えた。もう、もう言ってしまおう、そう彼女は思った。

「大丈夫?ねぇ、小夜子さん?」

小夜子は、ふぅ、と息を吐いた。これで、すべてが終わってしまうかもしれないのだ。

「私ね、店長。あなたが好きなの」

言ってしまったあと、彼女はまた、ぽろぽろと泣いた。しかし、小夜子は続けた。

「初めて会ったときから、気になってて。あなたがここに誘ってくれた時、飛び上るほどうれしかった。でも、あの日、店長は何もしてこなかったじゃない?女の子が男の子の家に行って、お酒飲んで、何もないって、それってもう、何もないってことでしょう……?それから何度もそういうことってあったのに、店長ったらいっつも料理か本の話ばっかりで、私のこと、女として見てくれないんだ。私、もう、駄目だよ。もう、一緒にいられないよ、これ以上は、もう」

そこまで言って、彼女は机に突っ伏した。そして声をあげて泣いた。

店長は、何も言えずに、泣いている彼女を見ていた。突然流れ込んだ情報が、今までの自分が認識していた事象を、すべて前提から書きかえるものであったのである。自分が考えていたことと同じことを、小夜子も考えていて、同じように悩んでいた。それはとても悲しいことだったが、それが発覚し、それが小夜子の勘違いであることを自分が知っている以上、店長にとって、それを喜ばしいことに変えてしまうことは、簡単だった。しかし、彼はその答えに至るまでに、多くの思考的な寄り道をせざるを得なかった。それほどに、気が動転していた。とはいえ、命からがら、彼はそこまでたどり着いたのである。

「小夜子さん」

彼が、そう言った。

もうそれだけで、この小さな物語は、幕を閉じることができる。読者の中には、このあとの甘い甘い、それはもうしつこいほど甘い描写を望む向きもあろうが、残念ながら私はそれを望まない。どうしてかと言って……それは、そうだな、恥ずかしいから、とでも言っておこうか。それでは、また、どこかで……。

おしまい