それから三〇分ほどして、過ぎ去った十一時よりも零時が近くなった頃、里美ちゃんが、
「明日一限あるので帰ります」
と言ったので、当然のごとく一番年少の森野が送っていくことになった。今日この二人は殆んど半日一緒にいたのではないだろうか、喜ばしいことである。里美ちゃんは別れのあいさつを済ませて岸田を後にした。

「あの二人、エライええ感じやなあ」
「水呑み男子にも春が来たのかしら」
「その事なのだが」
私は里美ちゃんの心中をこの二人に話そうと思っているわけではない。私が今日、森野との勝負をつけに昼過ぎに岸田に来た時のことを話すのである。
「そら、もう、そういうことなんちゃうの」
「でも森野は多分そうなる前に私たちに話してると思うよ」
「まあ、確かにそやな」
「やはり、そう思うか」
そうなのである。二人が既に「ふたりっきり」で森野の家にいることが当然の仲になっていれば、森野から何らかの報告があるはずであり、あるいは私には里美ちゃんから何らかの連絡があってしかるべきなのである。しかし、そのどちらもがないということになれば、事態はそれほど前進しているわけではないという事になる。
「まあ、若い二人のことだし、なるようになるわよ」
「それはそうだが……」
里美ちゃんの盟友である私としては、事態を捕捉しておきたいのが本音である。
「まあ、ええやん、草さん。飲もう」
「う、うむ」
そう言って私たちは弘毅が来るまでの間に、残りの酒を飲みつくしてしまった。そして、時計の針が十二時を過ぎた頃、弘毅と森野が連れだって帰ってきた。

「ただいま」
「お久しぶりです、みなさん」
そう言った弘毅の手には素晴らしい量のアルコールがぶら下がっている。
「でかしたぞ、弘毅。誉めてつかわす」
私はそう言って何人かの夏目漱石氏を私の財布から送り出した。避けては通れぬ別れといえど、やはり感慨深いものがある。しかし、それにかかずらっている時ではない。私は早速森野に聞いてみることにした。
「ところでだ、森野」
「ん?」
「今日の昼間、どうしてまた里美ちゃんと二人でいたのだ」
「え、森野、里美と二人でいたの」
だから今言っただろう、と言いたくなる弘毅の茶々が入る。
「ああ、あれ。里美ちゃんからメールが来てん」
「え、里美からメールが来たの」
「どういう内容のメールだったの」
好奇心の抑えきれなくなった香織嬢が入ってくる。だから今言っただろう、と言いたくなる弘毅の茶々も再び入る。
「今から行ってもいいですか、って。それだけ」
「え、そんなメールが来たの」
「それは、もう、そういうことやな」
郷田もたまらず参戦する。だから今言っただろう、と言いたくなる弘毅の茶々はきっちり入る。
「そういうことって……。そんなんちゃうやろ」
「それって、そういう事じゃないの」
「まあ、森野がそう思うのならいいんだけどね」
香織嬢が意味ありげな微笑を浮かべて言う。だから今言った(以下略)。
「森野は仮に、里美ちゃんが『そういう事』だったら、どうなんだ」
「どうするの」
「どうって……さあ、まあええやん、そのことは。飲もうや」
私は何とかそのあとも森野の本心を探りだそうと骨折ってみたのだが、うまくお茶で濁されてできなかった。にしても里美ちゃんは積極的である。先ほど森野が言った文面を送れば、ハイエナのように女性を求めている肉食系男子なら即「そういうこと」だと感知してしまうだろう。むしろ感知してほしかったのかもしれないが、さすが水呑み男子の面目躍如というところか。

「俺、里美のことはあきらめたけど、正直羨ましいよ」
少々酔っぱらった弘毅がだしぬけにこう言った。
「俺なんてさ、今でもメールに返信してもらえないし、電話しても出てもらえないんだよ」
訂正する。彼は相当に酔っぱらっているようだ。にしても、彼には忘年会で介抱してもらった黒髪の可憐な女の子がいるはずである。あれほど親身になって介抱してくれたのだ、何かあるはずである。にもかかわず、未だに森野にこのようにあからさまに嫉妬するとは。
「弘毅、お前、肉欲大魔神だなー」
酔っぱらった香織嬢である。郷田は既に寝ている。
「ち、ちがいますよっ」
「だってさ、こないだ別の子に振られたばっかでさ」
「ほんまやな。それにこないだも酔っぱらった女の子にしなだれかかられて、デレデレしとったもんな」
「それ、いつだよっ」
「この間。そこの飲み屋で飲み会やっとったやろ。あそこに俺もおってん」
「貴様、女なら誰でもいいのか。不埒な奴!」
「よっ、肉欲大魔神
香織嬢がなんとも下劣な囃子をしたのをきっかけに、おそらく大魔神の堪忍袋の緒がプッツンと切れたのだろう。彼は、
「ち、ちがうっ」
と声を裏返しにして怒鳴り、荷物を鷲掴みにし、凄まじい音を立てて扉を閉め、帰ってしまったのだ。家の中が一時静まり返る。

「ちょ、ちょっとやりすぎたかしら」
酔いがさめたのか、少し素面の声に戻って香織嬢が不安げに言う。
「まあ、明日なったら忘れとるやろ」
森野は全くもって気にしていない様子である。それは私も同様だ。
「香織嬢が謝りのメールを入れておけば大丈夫です。肉欲大魔神だから」
「そやな、命名も香織さんやし」
「了解いたしましたあ」
と、香織嬢は間の抜けた声でメールを作り始めた。私たちはと言えば、これまでのゲームの対戦成績が昼間の勝負で一対一になっていたため、その決着をつけるべくコントローラを握っていた。
「草さん、一週間のブランクはきついやろう。さっき、ボロボロやったやん」
「ふん。先のは勝負を面白くするための演出だ。あまり図に乗らぬがよいぞ」
「こっちの台詞やわ」
両雄再び相まみえる。二人の間には蒼い火花が散っていることだろう。

「そういえばさ、草さんは最近楽しいことないの」
メール作成を終えたらしい香織嬢が唐突にそう私に聞いた。
「ありますよ。近頃読んだ本で、江戸一八世紀は末のことなのですが……」
「そうじゃなくて、女の子関係のことで」
「女性、ですか。そんなもの私にあるはずがない」
「ほんとうに?」
なにやら疑われているようである。とはいえ、佳菜子さんのこともあれば、文通相手のことも、さらにはその相手がネットワーク上で不思議なことをしていることもあり、あるいはそれとの関連で態侘落先生に会ったり、兵頭茂に今思えば悪魔的な嫌がらせをしたりと、色々と岸田の面々には話していないことがあるので、香織嬢の懐疑は妥当と言えば妥当である。
しかし佳菜子さんのことに関して言えば誰に相談したところで今更どうにかなるものではないし、何しろ未練がましい自分が恥ずかしい。文通相手周辺のことに関しても、そのことについて他言すればもはや秘密遊戯などではなくその魅力が半減してしまいかねない。だから、どちらも言うわけにはいかないのである。
「本当です。悲しい位何もないですよ」
「ふうん、そうか」
「はい。あっ、しまった」
「草さん、油断したな」
香織嬢の突然の詮索に気を取られてしまい防御がおろそかになった私は、森野の必殺技をもろに受けてしまったのである。
「ふ、不覚……。しかし、まだ一回目である」
私たちはそのあとお互いの負けず嫌いのせいで結局深夜二時まで死闘を繰り広げ、結果十一勝十敗で森野の勝利と相成った。
「最初の一回がきいたんとちゃいまっか、草さん」
「ぐぬう。悔し過ぎる。しかし、きょうはこれまで」
「お、香織さん、こんなとこで寝とる。おうい、香織さん」
森野は香織嬢を引き摺っていくという。私はよろしく頼む、と言って自宅に戻ることにする。

冬の空気は澄んでいる。鼻から吸い込むと、目の間の辺りがスゥーっとして気持ちがいい。そして何より、星が素晴らしくきれいに見える。私は星がとても好きだ。月と同じくらい、好きである。
私は小学生のころから、人といるよりも一人でいるのを好む子供であった。そのため、運動場にいるよりも図書館にいることが多く、低学年のうちに図書館に大量にあった子供向けに改められた西洋の幻想怪奇小説は全て読んでしまった。私の小学校の図書館にはその他に、春夏秋冬の星座にまつわる神話を縷々解説してくれている本があったが、それは三度ほど読破し、今でもそれらのいくつかは何も見ずに語れるほどである。
その星座の本へと導いてくれたのが、「禁帯出」のシールが貼られた星の図鑑であった。そのような本を初めて見た私は、一時期放課後に図書館が解放されると真っ先にその本を机に広げ、午後五時の閉館時間まで飽きもせずにずっと美しい星のカラー写真を眺めていたものである。

私はその本の中で「すばる」という星群が特に気に入っていた。すばるは西洋では「プレアデス星団」というそうだが、私はそれよりも和名の「すばる」という名の方が好きである。プレアデスという言葉の語源はよく知らないが、その語感は私にとても神聖な印象を与える。この名でもってあの星を見たときに、その光がとてつもなく遠い、それこそ神々の光のように見えてしまうのである。「すばる」の語源は「統べる」だそうだ。語源はともかく、この「すばる」という響きは私に清冽な水がパシャリッとはじけるようなイメージを想起させてくれる。
いつも近くにある水が、ふと見せる醒めるような輝きとあの星のあの美しい水色の光とが私には素晴らしい組み合わせのように思うのである。肉眼でも見え、双眼鏡ではもっと美しく見えるので、私は当時夜になると双眼鏡で空を見てばかりいたものである。

そんなことを考えながら、私はぼんやりと空を見つつ家路を歩いた。すると、星々が輝く間に、白いものがちらちらと揺れているのが見えた。
「雪、か……」
はらはらと舞い降りるそれが、空を見上げる私の唇に触れた。ひんやりとする。
「おお、雪だ」
酔っぱらっていたのもある。それは認めよう。しかし、私はむやみに嬉しくなってしまった。もう弁解はやめる。私は駆けだす。
「おお、雪だ!」
と叫びながら、駆ける。ますます嬉しくなる。

どうしてこんなにうれしくなるのだろう、と考えてはみたが、答えは出なかった。

一月一六日.

電話が鳴った。私は嫌な夢から覚めた後だった。仕方なしに電話に出ると、東京から今帰ってきたらしい長田である。
「ただいま。寝てた?」
「嫌な夢から覚めたところだ。そのせいですこぶる機嫌が悪い」
「嫌な夢?」
「誰かの手のひらの上で、次々に迫りくる妖怪どもを延々倒す夢なのだが、この妖怪が本気で私を殺しに来るものだから全く気が抜けない」
「手の平の主はわからなかったの」
「うむ……顎までは見えたのだが、それより上が暗くてよく見えなかった」
「なんだか気持ち悪いね」
「イライラしながら妖怪退治にいそしんでいたのだ」
「それは御苦労さま。ところで、こないだ頼まれてた件なんだけれど」
「そうだ、どうだった」

私は先日兵頭の所で切れていたあの妙な出来事の糸口を探すべく、長田に調査を依頼していた。この長田という男は、私と同じ学部の人間で、一見するといたって普通の大学生なのだが、その実態は全くもって違う。世の中のありとあらゆる方面の動向に精通し、理学部生徒とブラックホールのロマンについて物理の公式を使いながら歓談し(私には何が何だか皆目わからぬ)、スポーツ科学科の生徒とはより効率の良いトレーニングの方法について議論し、江戸学の教授と侃々諤々の論争を繰り広げた後、意気投合して酒を飲みに行った。
政治や経済、文藝・ファッション・芸能などなど、とにかくありとあらゆる情報を幾重にも積み重ねてその脳内に収納している男、それが長田である。この男はその情報収集力を生かして探偵稼業も営んでおり、学生ながら彼の評判はその世界では全国的に高名らしい。
「どうする? 電話でも報告できるけど……」
「会って話したい。今日の午後はどうだ」
「大丈夫だよ。なら図書館の前で」
「うむ」
彼はその仕事をするとき、全くと言っていいほど外に出ない。足を使わないのである。彼は日頃収集した情報を五十音順に並べて整理し、いつでもその情報を開けるようにデータベース化している。それを使って、その時々の依頼に類似した情報を引き出し、それを糸口にあらゆるところに網の目のように広がった人脈(彼はこれを「天網」と呼ぶ)を利用して「答え」にたどり着くのである。故に、彼は東京にいながらにして今回の私の依頼をこなすことができたのである。私は軽い食事をとると、図書館へと出かけた。

図書館の前に行くと、長田はもうそこにいて、にやにやしながら書物を読んでいる。
「久しぶりだな」
「お、草人」
「何を読んでいる」
「『こわれもの』っていう、俺の尊敬する学者が書いている本。めちゃくちゃ面白いよ」
「また気が向いたら読もう。で、どうだったのだ」
「結構簡単に終着点まで行けたよ。そんなに複雑な構造ではなかった」
「して、例のサイトを作り、手紙を書いている人間は誰なのだ」
「でさ、その手紙のことなんだけど、その後どうしてるの?」
「文通は、続いている」
あの晩、私は気味が悪いながらも貼られた手紙を回収し、部屋に戻って読んだ。するとそこには相も変わらず彼女の美しい筆跡で文章が書かれていた。私はどうにもこのような字を書く人が、あんな妙な手口で手紙を運ばせているということが腑に落ちず、その日のうちに返事を書いたのである。それからも何度かやりとりをしているが、文面には何の変化もない。
「そうだとは思ったけど、一応確認したんだ。そして、そこがおかしい」
「兵頭の件も思い合わせれば、何かしらの変化があってもおかしくはないのだ」
「そうなんだ、なのに彼女はいたっていつも通り返事を送っている」
「もったいぶるな、はやく結末を言え」
「……」
長田は私がそう言うと、手元を凝視してしばし黙してしまった。この男の逡巡に何の意味があるのか考えてみようとしたが、おそらく私のような人間にはわかるまい。日頃は稀代の大知性を自称する私も、この男の前では赤子同然なのである。

「あのさ、草人」
「うむ」
「この依頼はね、君自身が、君の力で解決すべき問題だと思うんだ」
「どういうことだ」
「そっちの方が、君の為なんだ」
「……」
「俺を信じてくれ、きっとそうなんだ」
「しかし、私にはもう解決に至る糸口が見えなくなってしまっている」
「うん、だから、ヒントは出す。だけどその糸を手繰るのは、君じゃなくちゃならない。当然、相談料はとらない」
「お前がそこまで言うのなら、しかたあるまい」
「わかってくれてうれしい」
彼は心底ほっとしたようにそう言う。
「で、ヒント、なんだけど」
緩んだ顔の筋肉をいっきに引き締めて、彼は切り出した。
「君が持っている情報だけでも、彼女とそのサイトの管理人が別人だってことがわかるよね」
「というのは」
「彼女が君のイメージ通りの女性だった場合を前提として、彼女とサイトの管理人が同一人物だった場合、さっき言ってたみたいに何かしらの変化がおきるはずだろう?」
「うむ」
「だから、同一人物の線を消すことができる。で、じゃあどういう構造なのか、ということだけれど」
「そう、そこだ」
「可能性は三つある。第一にサイトが依託制になっていて、文面をどこかに貼り付ける仕事を専門に請け負っている。彼女はそのことをどこかから聞きつけて、依頼をした。君と兵頭との間にあった一件は当然管理人にもバレている筈だ。しかしそれを管理人は彼女に報告していない。サイトの落ち度になるからね」
「なるほど、しかし……」
「そう、兵頭のバイト料が一万円と言うところに少し違和感がある。そこまで給料が高いとなると、彼女の依頼にかかったお金はもっと高くなる。いくら退屈しているからと言っても、ちょっと変だ」
「この線は薄そうだ」

「そこで、第二の可能性だ。彼女とサイトの間に、もう一人介在者がいる場合を想定する。彼は彼女のことを気にかけていて、彼女のために何かしてやりたいと思っている。資金力も十分だとしよう」
「彼は彼女から手紙を預かり、サイトの人間に渡す。それが私の駐輪場の段ボール箱に貼られる」
「これなら君と兵頭の一件が彼女に伝わっていない可能性が、より考え得るものになる。介在者が増えるほど、その可能性は濃くなるだろう」
「三つ目は?」
「この介在者が、サイトを作った。あるいはサイトの管理人が介在者になった。ここは大差ないね」
「なるほど……」
長田はそこまで言うと、荷物をまとめて立ち上がった。
「ヒントはここまで。あとは何とか頑張って」
「おいおい、新しい情報は何もなかったではないか」
「それをあげるとあっという間にわかっちゃうんだよ……にしても君は幸せ者だ」
「何?」
「まあ、態侘落先生にでも聞いてみるといいよ」
私が呼びとめるのも聞かず、彼はそう言って去っていってしまった。
「聞いてみるといいと言われてもだ……」
先生は神出鬼没、何処に現れるかもわからんお人なのである。とにかくも今の長田との話からでは、彼女についても、サイトについても、その想定される介在者についても、何もわからない。なんだか煙にまかれたようですらある。
「私のため、か……一体なんだというのだ」

私はその場で考え込んで、終いには眠り込んでしまった。疲れるような夢を見た時は決まってこうなのである。おそらく熟睡していないのだろう。
「はっ」
寒さに目を覚まし、辺りを見回して自らの状況を把握する。ほっと一息つくが、視界の端に妙なものが映り込んだような気がしてその方向を再度確認した。すると、そこにはベンチに横たわる老人がいた。無論、態侘落先生である。こんな短い間に角田先生おっしゃる所の「僥倖に近い幸運」が二度も訪れていいものだろうかと不安に思う。
「先生!」
「……」
熟睡しておられるようである。だからといって、このチャンスを逃すわけにもいかぬ。私は先生の近くまで行き、肩を叩いて揺さぶった。
「先生、起きてください」
「ん?……貴様か」
「貴様かじゃないですよ、お聞きしたいことがあるのです」
「……かるか」
「は?」
「寝起きに貴様のような汚い面を見せられた私の気持ちがわかるか、といっている」
「す、すみません」
深いため息をついて先生は体を起こし、私を向かいのベンチに座らせた。
「で、なんだ、聞きたいことというのは」
「以前言われた男を追いかけたのですが、彼からは結局あまり有益な情報は得られませんでした。」
「そして、また私に何か言ってほしい、と」
「はあ」
「貴様は全くもって他力本願だのう」
「すみません」
「まあ、しかたあるまい。ではの、今日の夜、貴様の平生の散歩をせい」
「先生はなぜそれをご存じで」
「儂はなんでもしっておるのだ。いいか、いつもの道順をあるくのだ」
「はい」
相変わらず雲のように曖昧な助言である。
「よし、儂は腹が減った」
「では、言われたとおりにします。ありがとうございました」
「ちがう」
「え、別のことをしろと?」
「ちがう、ちがう!」
先生はもうどう考えても、どう見ても癇癪を起した老人である。
「何なのですか」
「飯を奢れというているのだ!」
癇癪老人は憤然と言い放った。
「そうならそうと言えばいいでしょうが!」
「愚か者、気づけ!」
私はなおもぎゃあぎゃあと喚く先生をなんとか宥めすかしながら食堂へと連れて行った。

私は鶏のから揚げに大根のすりおろしとネギを載せ、最後にポン酢をかけた通称「とりポン」とほうれん草のおひたし、そしてライスのMをトレイに載せ、レジを通過した。私が先生の分のお茶を持って席についてもまだ先生は迷っている。私は呆れているそぶりは極力見せぬようにして先生のもとに近づいた。
「何を、迷っておられるのです」
「迷ってなどおらん。チキン南蛮か鶏のから揚げポン酢かで決めあぐねておるのだ」
「それを俗に迷っているというのです」
「貴様の俗人ぶりを自慢されても儂は困惑するほかないぞ」
「まあいいです。で、どちらにするのです」
「待て、今考える」
一分ほど先生はなにやらぶつぶつと言いながら決める努力をしていたが、それは報われそうにはなかった。
「先生」
「なんだ」
「鶏のから揚げポン酢は私も頼みましたから二つほどお分けします」
「何? それをさきに言え」
威厳たっぷりにそう言うと、先生はチキン南蛮をトレイに載せた。私がレジで会計を済ませ、ようやく席に着くことができた。
食べ終わると、つまようじで歯の間に挟まったものを取り除きながら先生がだしぬけに言った。
「あのような者が、近頃の大学生の典型なのか」
先生が指差す先を見ると、恋人同士であろうか、男女が仲睦まじ気に歩いている。
「まあ、所謂という感じはありますが」
「ほう、貴様は典型ではないのか」
「私、ですか」
私の頭にはそれまでの大学生活が走馬灯のようによぎった。このままこと切れてしまえばどんなにいいかと思う程、軟弱な日々である。
「私はこの四年間、何もしてきませんでした。私には何もありません」
「……」
先生は黙している。私は続けた。

「一年生の頃は確かにあのような典型的大学生を目指したこともありますが、結局私には向いていなかった。普通の女性と気兼ねなく話すなどということは、私にはどだい無理な話なのです」
先生は何も言わない。
「だからでしょうか、私は活字の世界の中に自分の理想郷を見たのです。自分のペースで歩むことができて、かつ書き手との対話も何度も繰り返すことができる。……それは今思えば逃げているだけだったのかもしれません。しかし、私にはそれしかなかった」
私がそこまで言うと、先生は無言で立ちあがった。
「貴様は、何も見えておらんのだな」

それだけ言うと、御馳走になった、と言って呆然とする私をその場に置いて食堂から出て行ってしまった。