私は巻かれた糸を素早く引き、見事我が家のフローリングの上でベイゴマを回すことに成功した。ベイゴマは絶妙なバランスを保ち、静かに回っている。私と男たちはそれを静かに見守っている。今がチャンスだ、私はそう思った。男たちが気を取られている間をスルスルと抜け、私は下宿から逃げ出す。ベイゴマに救われたのである。

私は住み慣れた町をあてもなく逃げ回った。少しでも油断していると大人数の足音と殺気だった怒声が聞こえてくる。私はそのたびに手近な路地に逃げ込んだ。どうして命を狙われるようになったか、自分の胸に聞いてはみたが、彼はわかりませんの一辺倒である。これ以上問い詰めるのも気の毒なので、私は自分の胸との会話を終えた。
追われるままに逃げ、私が行きついた先は岸田アパートであった。私は追い立てられて、ほとんど元の場所までもどってきてしまっていたのである。しかし、やつらも岸田は盲点であろう。よもやこのような近くに潜むとは思いもしまい。灯台もと暗しである。それに、郷田であればあのような男どもはもやし同然であろう。やつらがたとえ緑頭もやしだとしてもその頭をプチリと潰してくれるに違いない。私は辺りをうかがいながら郷田の部屋にもぐりこんだ。
「すまん、郷田。かくまってくれ」
「どないしたん」
「なぜかは知らんが、命を狙われている」
「そら大変やなあ」
トイレにでも入っているのか、部屋には郷田の姿はなく何処からともなく声が聞こえてくる。私はとりあえず座り、なるだけ姿勢を低くしていた。ガチャリと音がしたので、郷田がトイレから出てきたかと思い、そちらの方に視線を移した。
「どういうことだ!」

私は思わず叫んでいた。トイレから出てきたのは間違いなく郷田であったが、彼はあのいつもの蓬髪に、黒のスーツと黒のネクタイ、黒のサングラスという恰好をしていたのである。私はありとあらゆるかぎりの罵詈雑言を浴びせかけたく思ったが、今は逃げねばならぬ。私は玄関の方へ走り、扉をあける。しかしそこにはもう一人の追手がいた。
「観念せい」
木刀を手に持ち、黒の袴を着て立っていたのはなんと態侘落先生である。
「先生、あなたまで!」
私があまりのことにたじろいでいると、森野の家の扉が開いた。私はそこから出て来た人間を見て、もはやその場に手をついた。
「草さんの為や」
そう言ったその男は森野であり、彼も郷田と同じ格好をしていたのである。
「草さん、まだ驚くのは早いわよ」
この声は香織嬢であろう。もはや目で見て確かめるまでもない。しかし、これ以上驚くことがあろうか。信じていた人物全員によもや命を狙われていようとは。絶望のどん底に落ちていく私のそばに、こつこつと靴音が近寄ってくる。
私が顔をあげると、そこには銃口と、佳菜子さんの微笑みがあった。―――銃声。

目を覚ますと体中が汗でぐっしょりと濡れていた。妙な夢のせいもあるだろう。熱があるとはいえ、あまりにも支離滅裂な展開であった。洗濯物では一秒たりとも隠れることはできまい。
少し熱は下がったようである。どのようなメカニズムなのか知らないが、汗をかくと熱が下がるような気がする。科学的根拠は持たないが、経験的根拠なら結構な数を提出できるはずである。時計を見ると、五時間ほど眠ったようである。時計ははや一五時を過ぎていた。
「少し楽になったことだし、雑炊でも作るとしよう」
またいつ発熱するとも限らないので、動ける間に力を蓄えておかねばならない。私は布団から出て雑炊の準備を始めた。
思えば三年前、連日の飲み会と予想していた以上に寒い気候のせいで私は四月早々体調を崩した。環境の変化も一役買っていたのかもしれない。とにかく熱が出て、喉が枯れるほど咳も出て、終いには吐いた。それまでは体調を崩せば家族が心配してくれ、専業主婦の母が体温計を持って来てくれたり、水を持って来てくれたり、雑炊を作ってくれていた。
当然、その時には心配してくれる家族もいなければ、看病してくれる母もいない。私は朦朧とする意識の中で母のしてくれていたことを思い出し、氷枕を作り、雑炊を作り、水をペットボトルに詰めて飲んだ。しかし薄いビニール袋で作ってしまった氷枕は当然の如く破れて水がこぼれ出し、寝具をしこたま濡らした。戸惑いながら作った雑炊はだしを入れていなかったために食えたものではなかった。

それが今ではたった一人で高熱が出ても、さしてあわてずに対処できるようになっている。時は確実に過ぎていて、私も着実と変わってきているのだなと、だし汁にふやけて形をなくしていく米粒を見ながら思った。
鍋はなんでもかんでもふたをすればよいと思っていた頃は、しょっちゅう吹きこぼしていたし、炒めるときの火力は強い方がよいという思い込みのせいでフライパンはあっというまに焦げだらけになった。ジャガイモとニンジンになかなか火が通らないので放置していると、カレーが焦げてしまったこともある。豆腐ハンバーグが食べたくて、つなぎが何か分からなかったので、米でやってみたら得体のしれない食べ物になったこともあれば、ハヤシライスの具が分からなくてカレーと同じものでやった時は、確かにハヤシライスの味にもかかわらずカレーを食っている気がした。
何もできない自分に失望して、いかにこれまで家族の恩寵に浴してきたかを実感したものである。それがいつの間にやら四年弱が経って、いつの間にやら料理も掃除も洗濯もできるようになっている。感慨深い気持ちにもなる。

私は消化しやすくなった米粒を器に注ぎ、スプーンを持ってベッドに座った。欲張って一度に腹に入れるとエライことになるので、少しずつ分けて食べるのである。これも失敗から学んだことだ。ぼんやりと雑炊を食べていると、携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「今日、夜暇?」
「森野か。すまない、体調を崩したから行けない」
「え、マジで? わかった、お大事に」
「うむ」
電話を切ると、腹に何かしら入ったせいか眠気が襲ってきた。
「もうひと眠りするか」
私は布団にもぐりこみ、目を閉じた。
窓に何かがぶつかっている音がする。まだ頭は眠っているのだが、感覚だけが起きていて、その怪音を知覚した。私は目を開く。すこしずつ意識が戻ってくる。部屋で一番大きな窓が凄まじい音を立てて震えている。ぶつかっているというより、たたいている音だ。
「誰だ!」
まだ少し熱があるようで体が重かったが、そうもいっていられない状況だったので、私は立ち上がってそう叫び、カーテンを開けた。するとそこに現れたのはその正体を知らぬ人間が見ればあまりの恐怖に卒倒しかねないほどの奇怪な風貌をした我が友人、郷田である。
「郷田、そんなところで何をしている。というよりどうやってそこに上ったのだ」
私は窓を開いて言う。
「壁上ってきてん。草さんが病気やって聞いたから」
彼は満面の笑顔でそう言い放った。後半はたいそう有難いが、前半は聞かなかったことにしよう。
「それで、これ」
彼はそう言って何やら一杯詰まったビニール袋を私に手渡した。
「ほな、あんまり長居してもあかんから」
「あ、ありがとう」
私がそう言うと、彼は少し驚いたような顔をして、
「しんどい時は、お互い様や」
と微笑んで言った。そして、お大事に、と言って二階の高さから飛び降りた。
私はその大きな背中を見送ると、窓を閉め、ベッドに横になった。ビニール袋の中身はこうである。二リットルの清涼飲料水に、うどん三パック、ねぎ、ギャグ漫画、うがい薬、熱冷却シート携帯用ゲーム機とソフト、怪しげな瓶にはいっている怪しげな緑の粉末。全て袋から出すと、最後に一枚紙きれが残った。そこにはこう書かれている。

 

香織です。草さん、大丈夫? 一人暮らしの病気は孤独なので、寂しがり屋の草さんが泣いていないか心配。ということで私たちからの救急グッズをあげます。早く治してまたお酒のもう。
スポーツドリンクとうどん、ゲームは森野から。マンガとうがい薬、シートは私から、ねぎと瓶は郷田からです。
郷田は、「風邪にはネギや! ネギを首に巻けば治る!」とか言ってネギを入れました。止めたんだけどね。よかったらうどんの薬味にでもしてください。
もうひとつ、瓶に入っているのは郷田特製の薬だそうです。山で採れた薬草を乾燥させて粉にしたんだって。本人は効果抜群だって言い張ってたけど……勇気があればどうぞ。
たくさん水分とって、あったかくして寝るんだよ。では、お大事に。

こういうことは、正直言って苦手である。人にやさしくされることに慣れていないからだ。どういう反応をしていいかもわからなくなってしまう。私はたいていうつむき加減で、かりに顔をあげても苦虫をかみつぶしたような顔か、怒っているのかと聞かれるほど無表情かのどちらかであるので、あまり人が親切にしてやろうなどとは思わないというのもあるだろう。
しかしそうでなくても、どういう反応をしていいかわからずに、ぼんやりと無表情なままの人間に親切にする甲斐などありはしまい。それがわかっていても、どうにもうまく表情が作れないのが私という人間なのである。特に大学までの人生は、家族に助けられていることなどつゆ知らず自分一人で生きてこれたし、生きていけると思い込んでいたために、なお一層人の親切に対して無感動であった。
あまりに無感動であったために、高校二年の時にクラスメイトの女子に頬をひっぱたかれたことがあった。その時すらも私は軽蔑こそすれ、感謝の念など塵ほども抱かなかったのである。今思うと、物凄く嫌な奴であったことを認めざるを得ないが、その頃は自分の行動に対してつゆほども疑問を抱いてはいなかった。

それが大学にやってきて激変したのかというと、全くもってそのようなことはない。始めの頃に色々とできないことがあって戸惑いはしたものの、失敗を繰り返せば自分があらゆることを自分でできるようになる人間であると考えていたため、家族にこれまでの恩を感じることはあれど、それを他の人間にまで抱くことはなかった。
だから、私をいつも肯定し支えていてくれた佳菜子さんに対してあのような愚かな真似をしたわけである。私は、人に支えられて生きていることに、未だ気付けないでいたのだ。
それがようやく変わり始めたのは、あの郷田との河原での邂逅以来である。自分の今までの言動を客観視し、より人の評価に耳を傾けるようになった。あれから二年弱。私は人に感謝することを少しずつ覚えてきている。とはいえ、それまでの言動のせいで私に近づく人間は多かったわけではない。自業自得である。しかし、私はもう、人の親切を無表情で看過することはしなくなった。

その証拠に、私は今、嬉しくって泣いている。

一月二一日.

年末の大掃除のときには、あまりの混沌状態ゆえに見て見ぬふりをしていた押し入れを、もうじき卒業し、今の下宿から出ていくこともあって、整理してしまおうと考えた。これまで隠ぺいするように放り込んできた諸々を引っ張り出していると、この前の夏にやろうと思って買っていた花火セットが大量に出てきた。
捨てるのも惜しいので岸田で真冬の花火大会でもどうだ、と郷田に言うと、そう言えば自分も買ったままになっていた気がするので探してみる、とりあえず今日の八時からという事で話はおさまった。

私が通う大学の辺りは全くもって都会と言うには物足りない所である。故に夏になったとしても大した祭りもなく、当然花火大会など望むべくもない。花火大会や祭りを愛してやまない学生などは、わざわざ電車に乗って中心部まで出て行ったり、さらには県外にまで遠征していく者もある。
しかしながら大半の学生は、そこまでしなくともよいと考えており、私などもその口なので、この四年間自らそのような場所に出向いたことがない。大抵の学生と同じように、私も岸田の面々と河原でバーベキューや花火をしたりする程度で満足するのである。
しかしながら昨年の夏は、晴れれば猛暑日(もはや酷暑日と読んでもよいほどであった)、そうでなければ大雨、というような嫌がらせのような天候であったために人を集める気にもならなかった。私などは外に出ることすら億劫で、家の中で冷房をつけて涼んでいた。そのうちに夏が終わった。そのあとは四年生は卒業論文が本格的に危機的状況に陥り始め、三年生は就職活動が始まり、二年生以下は授業にサークルに大忙しとなったので、いつの間にかに花火はその存在を押し入れの奥深くに押し込められたのである。

私は発掘した花火をゴミなどと混じらぬようにわかりよい場所に置いておいて、その日一日かけて押し入れの中をきれいさっぱり整理してしまった。終わった頃に時計を見ると七時である。私は花火を持って岸田に向かった。
「郷田、持ってきたぞ」
そう言って私が郷田の家に入ると、彼も押し入れの整理をしている様子である。いつにもまして部屋が散らかっているのだ。
「お、草さん、ありがとう」
「押し入れの整理か」
「うん、始めたら止まらんくなってきてもうて」
「郷田、お前こんなに花火を買ってどうするつもりだったのだ」
私はふと見た先にとてつもない量の花火を発見して、思わずそういった。
「それ花火問屋で買うたんやけど、なんか楽しなって一杯買うてしもてん」
「で、しなかったのか」
「だって去年暑すぎたし、雨もおおかったからなあ」
「湿気ていなければいいがな」
「ほんまそれやわ、結構お金かかっとるからなあ」
手持ち花火がほとんどの私の花火セットに対して、彼のものは私と同じぐらいの手持ち花火に、それを上回る量の打ち上げ花火があった。しかも市販されているのかどうか怪しいぐらいの大きさのものもある。
「これをこんな住宅地でするのはまずいだろう」
私が特別大きな三つを指して云うと、そうかもしれんな、と言って郷田は残念そうな顔をした。
私が間違いなくそのままでは八時までに終わりそうになかった郷田の押し入れ整理を手伝って、ようやく一息ついた頃にいつものメンバーが集まり始めた。森野に香織嬢、里美ちゃんに弘毅、バーバラに卓である。
「空気が乾燥しとるから、万が一のために水まけるようにしとこう」
郷田のその提案で、いくつかのバケツに水が汲まれ、何処からか引っ張り出してきた長いホースが建物の外にある蛇口に取り付けられた。

一通りの準備を終えると岸田アパート花火大会は静かに始まった。ろうそくで火をつけるもの、ライターでつけるもの、他の者の花火でつけるもの。皆思い思いに花火をしている。私はごくごく一般的な手持ち花火をしながら、その様子をぼんやりと見ていた。
たびたび感傷的になってしまう自分がいることに気付く。以前は物事に執着するという事があまりなかった。小さい頃、幼馴染が転校するという事でその見送りに行ったことがある。他の人間は涙ながらの別れをしていたのだが、私一人何の感動もなく、当然泣く事もせずに、じゃあまた、と言って握手だけをしていた。子供の私は皆がどうしてそんなに泣いているのかさえあまり理解できていなかった。それはずっと変わらなかったことである。小学校や中学校、高校の卒業式でさえ私は一滴の涙も流さずに式を終え、皆が感動や感傷の中で忘れてしまいがちな事務的な仕事を全て請け負っていた。

しかし、今思えば私には皆ほどの別れがたい関係というものがなかったのかもしれない。そうであれば、離別を惜しんで涙することもないだろう。それが了解できたのもこの岸田があってこそである、と近頃思う。もうあと二週間もしないうちにこの一月も終わる。
卒業式まではまだ二カ月あるが、三月になれば郷田や香織さんは就職先の企業の所在地へと引っ越していくらしい。彼らと過ごすのは実質あと一カ月である。そう考えると、何かこみ上げるものがあるのだ。私は燃えては消える花火を見て、ああまさにこれが青春であろうかなどと月並みな表現など頭の中でしていた。

「草さん、なんだかぼんやりしてるね」
香織嬢である。
「いえ、花火をするのも久しぶりだな、と思いまして」
「そうだね、去年しなかったから」
私と香織嬢は隣り合って各々の花火を見つめている。
「あ」
花火が消えたとたん香織嬢が小さく言った。
「どうしたのですか」
「いやさ」
彼女は消えてしまった花火を名残惜しげにバケツに入れた。私の火も消えてしまう。
「花火が消える瞬間って、突然でしょ」
「そうですね」
「だから突然好きな人から別れを告げられた、みたいな心境になるの。とっても綺麗な火を飽きもしないでじっと見つめていて、それが少しの残像だけ残して突然消えちゃう、あの感じ」
「なんだか、わかる気がします」
「……もう、卒業だね」
「はい」
香織嬢はおもむろにタバコをとりだした。
「やめたのではなかったのですか」
「今日までやめてたけどね、なんか吸いたい気分なの」
「……そうですか」
彼女の吐きだした煙が花火のそれと混ざり合って、寒空に舞いあがっていくのを見る。空は本当に様々なものが混ざり合ってできているのだ。
「なんか、あの二人、本当にいい感じだねえ」
香織嬢は森野と里美ちゃんを見てそう言った。
「恋人同士と言っても、何の問題もないですね」
「うん、なんか妙な安定感がある」
確かに、と思いながら何とはなしに視線を弘毅に向けると、彼はタコの絵が描かれた陽気な手持ち花火を手にしていた。にもかかわらず、その目は森野と里美ちゃんの方に向いており、表情はとても物悲しい。私は少し、胸が痛む。
「以前から聞きたかったのですが」
「何?」
「なぜ香織嬢は、郷田なのですか」
「どうして?」
「なんとなくです」
「なんとなくなんて、草さんらしくないね」
けらけらけらと彼女は声高らかに笑うと、付き合う前の話なんだけど、と前置きをして話し始めた。

香織嬢は思いの外(私がこう言うと彼女は決まって私を睨みつける)勉学にも熱心で、とりわけ一年生、二年生の頃は大学院生の先輩にずっと付きまとってはなれなかったという。先輩の研究の助手をすることで、一、二年の学生にはさせてもらえない研究もすることができたからである。しかしながら、研究に没頭することで他のことがおろそかになっていたこともまた確かで、大学での友人関係を蔑ろにすることも多く、当然高校時代の地元の友達などとは全く連絡を取ることはなかった。
三年生のある春の日、彼女が研究室から戻り、研究に必要ないからという理由で家に置きっぱなしにしてある携帯電話を見ると、知らない番号からの着信があった。彼女はそういう時にかけなおすことは決してしない。その時もそうだった。次の日同じように帰宅すると、また違う番号から着信があった。しかし、その番号は登録されていない。香織嬢は気味悪く思いながらもそのままにしておいた。その次の日には知らない番号からの着信はなく、彼女はほっと胸をなでおろす。

それから二週間ほどして、彼女がたまたま家で実験のまとめをしていると携帯電話が鳴った。知らない番号である。彼女は少し怖いように感じたが、何度も呼び出し音がなるので仕方なくその電話に出た。
「もしもし」
「あ、香織。あのね、千賀子がね、千賀子が……」
その電話は彼女の高校時代からの友人素美であった。素美によると二週間ほど前に千賀子という香織嬢と仲の良かった女性が事故に遭い、意識不明の重体となった。高校時代仲の良かった友人たちが見舞いに駆けつけ、彼女らは香織嬢にも電話をかけた。しかし幾らかけてもつながらず二週間が過ぎた。ずっと意識の戻らなかった千賀子は、そのまま息を引き取った。素美からの電話はその連絡だったのである。香織嬢は茫然とした。彼女は研究に没頭するあまり、高校時代の友人たちの電話番号変更の報せを黙殺していた。そのせいで友人たちの番号が知らない番号として表示されていたことに、その時になって気付いたからである。
そしてそれが原因で自分は親友の(香織嬢はそう呼んだ)死に目に会えず、意識不明であることすら知らずに毎日のうのうと暮らしていたことを、とてつもない罪悪であると考えた。彼女は千賀子の葬式には必ず出るからとだけ告げ、電話を切った。

そこまで一息に話すと、香織嬢はパーカーの袖で涙をぬぐった。お化粧とれちゃうな、もう、と小さく呟く。
「それでね、私は研究室にもいかずにひきこもりになってしまった」
彼女はいつものように近くのコンビニに夕食を買いに出かけた。料理は割合まめにしていた彼女だったが、その出来事以来料理をする気も起きずにいつもコンビニで済ませていたのである。
「その時のレジの店員が、あの郷田だったんだ」
見るからに窮屈そうな制服を着て、慣れない手つきでレジをする大男の姿が思い浮かぶ。
「で、弁当をレジに持っていくとね。彼が突然怒り出したの」
郷田はこのようなことを言ったという。お前はいつもここの弁当で食事を済ませているが、それはよくないことだ。自分は決してここの食いものなど食わない。体にいいものが全く入っていないからだ。もっとうまくて体が強くなるものを食わせてやる。明日この店の前に朝十時だ、と。彼は無論、その日のうちにクビになった。
「それで、香織嬢は行ったのですが」
私は半ば呆れ気味に言った。
「うん、なんでだろうね。まともな精神状態じゃなかったんだろうね」
そう言って彼女は笑った。
「でも、彼は私の話を聞いてくれて、励ましてくれたの」
というのは、こういうことである。郷田の言ったうまいもの、というのは山の木の実やキノコ、薬草のことで、彼はつまり香織嬢を山に誘い出したのである。はじめ香織嬢は黙りこくっていたが、郷田は度々食用の植物を見つけるたびに、この葉は体を温めるだとか、この花の根は便秘に効くのだとか、いちいち説明していた。

「そうしてるうちに、なんでだかこの人になら話を聞いてもらえるかもしれないな、と思ったんだ」