自己承認欲求というものはマズローの5段階欲求説では「尊厳欲求」に相当する、人間の欲求の中でもかなり上位の欲求だ。そのため満たされた時のテンションの上がりようは、それより下の「社会的欲求」(帰属意識)や「安全欲求」(健康や雨風をしのぐ家)、「生理的欲求」(寝たい、食べたい)などが満たされた時の比ではない。

そしてだからこそ厄介なものである。

ところでマズローの5段階欲求説の最上位に位置するのは「自己実現欲求」である。これは「自分の能力を引き出したい」「自分らしくありたい」などの欲求を指すが、この欲求を満たすのは現代社会においてかなり難易度が高いと思われている。

下手をすれば「そんな夢見がちなこと」「え?中二病?」とさえ言われかねない。なぜかと言えば今の日本ではまだ自分を押し殺してつまらなさそうな顔をして生きることが「常識」「普通」とされているからだ。実にクソみたいな考え方だが、それが現実である。

最上位の欲求が満たせないと諦めた大多数の人間は、こう考える。「最上位がダメなら、二番手・三番手を満たそう」そうして自己承認欲求、自己顕示欲が強い人間が量産されていく。

昔ならこれらを満たすためにも色々と苦労する必要があったが、今ではSNSを使ってさえいれば尊厳欲求・社会的欲求は簡単に満たせるようになってしまった。

「夢の国行ってきたわず」「今日は○○と△△行ってきましたあ」などと書き込めば、「いいね!」という承認がもらえる時代なのだ。

しかしこれの行く先はかなり恐ろしい。なぜなら他者から認められることに慣れてしまうと、「別に自己実現欲求は満たせなくてもいい」と考えてしまうからだ。これはつまり他者からの承認に人生の目的を見出し、自分で自分を承認する必要性を感じなくなるということである。

自分の人生ではなく、他者の人生を生きる人間の完成だ。

僕は別に現代社会批判をしたいわけではない。そういう生き方が好きな人はそういう生き方に殉じればいい。どうせ僕には関係ない。しかし自分がそういう生き方をするのは嫌だ。僕は僕の人生を誰にも明け渡したくないのだ。

ところが他者からの承認は手軽だし、気持ちがいい。この手軽さは「自分で作ったほうが美味しいことはわかっているけれど、手軽だからレトルトカレーで済ませちゃおう」の感覚とよく似ている。最初のうちは「たまにはいいよね」なんて言っているが、だんだん「それなりに美味しいんだし、こっちでいいんじゃない?」となっていく。

自分の食べているものに無頓着になるのはとても寂しいことだと僕は思う。同じように他者からの承認に身を委ねてしまうのは、自分の生きている時間に無頓着になることだと思う。これではダメだ。

他者に承認されるのは気持ちがいい。そして手軽だ。他者が喜ぶようなことをすればいいだけだ。周囲の期待に自分のアンテナを張り巡らし、そちらに向かって動けば承認してもらえる。満たしてもらえる。

もちろんこれが自分の中の気持ちに対してのコンパスと共鳴していれば問題はない。自己実現欲求と尊厳欲求の内容が一致していれば、自分の人生は自分のもののままだからだ。しかしこれがずれ始めると、自分はやりたくないことを他者の意思を理由にやろうとしてしまう。

そのズレはやがて心や体に歪みを生じさせてしまう。これが起きると僕の体は見事に動かなくなる。「そういうのは嫌なんだ」と瞬時に反応してしまうのだ。

自分で自分の人生を生きるためには、このズレが起きないようによくよく自分の声に耳を傾けてやらないといけない。他者からの承認という甘い誘惑に負けないように、心静かに自分と対話していきたいと思う今日この頃である。