僕は好きなブランドの新作が、リリースから数日でメルカリに出品されているのを見ると、すごく悲しい気持ちになる。

作り手が一生懸命作った服を、なぜろくに着ることもせずに売りに出すのか。もし僕が書いた本がそんな風に扱われたら……想像するだけでやりきれない。

単に個人的な感傷で済めばまだいいのだけれど、そうはいかない。この現象はブランドや、アパレル業界全体を緩やかに殺してしまいかねないからだ。

なんとかしなければならない。僕はまだ一消費者に過ぎないが、心底そう思う。服が、ファッションが面白くあり続けるために、今の状況は変えるべきだ。

僕はその解決策として「作り手・売り手が、もっと服についてちゃんと語ること」を提案したい。

服の歴史でもいい。
製作過程の苦労話でも、
作品に込めた想いでも、
「なぜこのアイテムをセレクトしたのか」でもいい。

とにかく、もっと、ちゃんと語るのだ。

ではどうやって語るのだろう。写真?それとも動画?僕は「伝える」を生業とするライターだ。だからやっぱり、写真や動画だけでなく、文章で語ってほしいと思う。

いやはや、これではあまりにも話が駆け足すぎる。もっと詳しく話すとしよう。

「リリースから数日で新作がメルカリに出品される」のはその服が愛されてないから

リリースから数日で新作がメルカリに出品される理由を、僕なりに考えたところ、最初に出た答えが「その服が愛されていないから」だった。

僕は服を買うとき、服以外のものも一緒にたくさん買っているつもりでいる。

例えば店員さんとの会話とか、思い出とか、服に込められた想いとか、ストーリーとか、あるいは自分が当時置かれていた心境なんかも一緒に。

だから一着一着にものすごく思い入れがあって、愛がある。そんな服をメルカリで、顔も本名もわからないような人に、おこがましくも自分で値段をつけて売るなんて、到底できない。

もし止むを得ず手放さなければいけないのなら、大切にしてくれる知人・友人に譲るだろう(絶対譲らんが)。

こうやって考えると、リリースから数日で新作がメルカリに出品されるのは、その人がその服に対して愛を感じていないからだと言えるのだ。

愛されないのは「服以外のもの」が伝わっていないから

ではなぜ愛されないのか。僕は「服以外のもの」が伝わっていないからだと思っている。

服はもともと道具だ。この場合の道具の機能は体を守るためとか、暖めるためとか以外に、異性にモテるため、周囲から浮かないため、社会的な地位を示すためといったものも含まれる。

そうした道具としての服には「店員さんとの会話とか、思い出とか、服に込められた想いとか、ストーリーとか、あるいは自分が当時置かれていた心境」は必要ない。

機能を果たしてくれさえすればOKだ。

でもブランドやアイテムによっては、もはや道具としての機能から逸脱した、色々なものが込められている服もたくさんある。

そういう「色々なもの」=「服以外のもの」が道具としての服を、愛着のある相棒に変えてくれるのだとしたら……。

「服以外のもの」を伝えなければ、買い手はその服を愛してくれないことになる。

「愛されない服の山」はブランド・業界を押し潰す

「わかる人だけがわかればいい」の問題

「服以外のもの」を伝えることについて「そんなのは無粋だ、邪道だ」と思う人も多いと思う。「わかる人だけがわかればいい」と言いたくなる気持ちもわかる。

服好きの心の中には「もっとこの服の良さを知ってほしい。でも誰にも教えたくない」という矛盾した気持ちがある。知っている人が少ない、他の人と被らないことに一定の価値があるからだ。

しかし「わかる人」を増やしていかなければ、愛されない服はどんどん増えていく。

その服はメルカリやヤフオク、ブランド古着屋に新品同様のままで流れていき、やがてブランド・業界を押し潰していくようになる。

「新品を試着して、中古で買えばいいや」の問題

服への愛がない買い手が多い状態で新品同様の古着が増えると、新品で買うことの意味が薄くなってしまう。結果「新品を試着して、中古で買えばいいや」という話になる。

販売店はもちろん、ブランドにもお金が落ちない。利益が減れば、必然的にものづくりの選択肢は狭まってしまう。

「いや、自分たちは今のやり方を貫くんだ」と言える体力のあるブランドはまだいい。

「売らなきゃダメだから、もっとたくさんの人にウケる服を作ろう」という話になれば、一瞬にしてそのブランドは消えてなくなるだろう。

大衆向けの服が格安で量産される時代に、大衆受けのする服を作ったところで、コネや資本のあるブランドの影に隠れて誰にも見えないからだ。

業界全体も面白くなくなっていく。無難で売れそうな、ちょうどいいラインを狙った服ばかりが増え、「そんなところにこだわるの!?」というクラフツマンシップに溢れたアイテムはどんどん数を減らしていくことになる。

実際に業界に身を置いている人なら、身をもって感じている流れではないだろうか。

もっと語れば、服はもっと愛される

「服以外のもの」が伝わっていないから、服への愛が生まれない。服への愛が生まれないから、ブランドや業界がつまらなくなっていく。

それなら、「服以外のもの」について、もっと語れば今の状況を改善できるのではないだろうか。

服やファッションと長年付き合ってきた人なら誰しも、服にまつわる「服以外のもの」について語るべきことがあると思う。

例えば僕は2019年の9月に、山葡萄のカゴバッグを購入したのだけれど、これについて次のような文章を書いている。

 

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僕は「モノ」に背中を押されることが少なくない。正確に言えば、モノに宿っている作り手の想いに背中を押される。 「俺も(私も)頑張るから、あんたも頑張りな」という優しく、力強い声が聞こえるのだ。 このカゴバッグは昨年の9月、僕が仕事で迷っていた時に、どこか新しいフィールドに行きたくて、背筋を正して買いに行った品物だ。 買ったお店はいつもの @walls_osaka 。 このカゴは、秋田の名のある職人さんが、1年の一時期しかとれない山葡萄の樹皮を使って一つ一つ手作業で編まれたものだ。 カゴバッグは得てして女性的になりがちだが、ウォールズのマスターが「乱れ編み」という製法で別注をかけたことで、一気に「男の持ち物」へと引き込まれている。 と同時に、自然の樹皮が本来持つ命の力というものが、生々しく表現されている。そのせいで、覚悟がなければ振り回されるのではないかと思うほど、このカゴからはパワーが溢れている。 僕はそのパワーを借りたいと思った。 特にこれ、というイメージがあったわけではないけれど、今とは違う別のフィールドに、仕事を一歩二歩と進めていきたい。でもそのための勇気が出ない。だからこのカゴバッグに、背中を押して欲しい。あわよくば支えて欲しいと思ったのだ。 「そんなの関係ないだろう」「自分の人生は自分次第だ」と思う人もいるだろう。僕だって、まじない程度にゲンを担いだだけのつもりだった。 しかし思い返せば、10月からのたった3ヶ月程度の間に、僕の仕事は急速に新しいフィールドに移りつつある。来年の今頃には、きっともっと、自分の仕事に誇りが持てているはずだ。 このカゴバックは、これからも僕の手の脂や湿気を吸い、飴色に染まっていきながら僕の仕事を見守り、支えてくれる。 彼の持ち主として恥じない仕事をしていたいと、心から思う。 #服が好き #モノが好き #明日なに着て生きていく#好きな服を着ていたい #いまだかつて人のゆかぬ道を心猛く進むこの服を身にまとい #カゴバッグ #山葡萄 #wallsandbridges #ウォールズアンドブリッジ

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このほか先日ブログに投稿した久米繊維工業の01トレーナーについての記事や、丸メガネ研究会というメーカーのラウンドフレーム「リレ(Lire)」についての記事も、「服以外のもの」について書いた文章だ。

服について語れば語るほど、その服には物語という別の価値が上乗せされることになる。そしてその物語こそが、買い手の中に愛が生まれるきっかけになっていく。

少しロマンティックすぎるかもしれないけれど、僕は真面目にそう考えている。

今やモノ・サービスを売る商売をしていて、「伝えること」「物語ること」に力を入れていないのはアパレル業界くらいのものだ。

車を売るにも、家を売るにも、健康食品や野菜を売るにも、どんなモノ・サービスで、誰がどんな想いで作ったのか……といったことが語られる。

それはモノ・サービスを売るのに、「伝えること」「物語ること」が必要だからだ。

もっと語れば、服はもっと愛される。服が愛されればブランドや業界にお金が入り、そのお金を元手に新しいこと、やりたいことができるようになる。未来が明るくなる。

だからもっと語ろう。もっと服について、ファッションについて、言葉を尽くそう。

大切に、丁寧に、誠実に、服を伝える方法

写真・動画で服を伝えるメリット・デメリット

では実際に、どんな方法で服について語ればいいのだろう。

主流になっているのは写真だ。アパレルショップのInstagramマーケティングは最盛期を迎えている。

どのお店もかっこいい写真、オシャレな写真で商品や着用画像をアップし、イイねを集め、売り上げへとつなげている。

少しトレンドに敏感な人なら、動画を思い浮かべるかもしれない。

ファッションYouTuberの数が増え、質も少しずつ上がってきている。動画は写真に比べてはるかに情報量が多いし、商品説明やウンチクも話し口調で手軽に伝えられる。

こうしたメリットがある一方で写真や動画にはデメリットもある。それは情報の密度だ。

視覚情報が直感に訴えかけてものすごい速度で伝えられる代わりに、多くの情報を省略してしまう。

もちろん撮る人の腕によっては省略されるものを減らすことは可能だと思うが、そういう人に頼むにはコストがかかる。

写真・動画は雰囲気で「何となくイイ感じ」を伝えるのは得意だが、じっくりゆっくり伝えるのは苦手なのだ。

文章だからこそ、伝えられることがある(と信じたい)

スピーディにイメージを伝えられる写真・動画に対し、文章はとかく伝えるのに時間がかかる。書き手にも根気がいるし、読み手にも根気がある程度必要になる。

しかし文章は時間がかかる代わりに、じっくりゆっくり、密度の高い情報を、順を追って伝えるのが得意だ。「すっ飛ばしちゃダメなこと」をきちんと伝えられる。

例えば服の歴史や、製作過程の試行錯誤のエピソード、服にまつわるデザイナーや店主の思い出話……そういったものは写真や動画だけでは伝えきれない情報が多い。

伝えられないわけではないが、そのためにはたくさんの人と技術と経験、そしてお金が必要になる。

でも文章なら、伝えることのプロであるライターと、情報源であるデザイナーや店主がいれば十分だ。

服について語るために、ライターだからこそできること

「伝えることのプロであるライターと、情報源であるデザイナーや店主がいれば」と書くと、「いやいや、文章書くくらいならブログでやってるから、ライターは別に必要ないよ」と思うかもしれない。

もちろん、それで「十二分に伝えたいことが伝わっている」と確信できているのなら、それで大丈夫だと思う。

でももし、「うまく伝わっていない気がする」「もっと伝えたいことがあるのに言葉にならない」という不満があるのなら、プロであるライターの力を借りてもいいかもしれない。

文章はあたかも芸術のように思われがちだ。だから「気分が乗らないと書けない」とか「文章が降りてこないと書けない」といった話になる。

確かにそういう文章もある。でも大半の文章にそこまでの芸術性は必要ない。

作文は技術であり、ツールだ。縫製職人がオーダー通りに服を縫うように、ライターはオーダー通りに言葉を紡げる(力量の差があるのも同じだが)。

餅は餅屋で買う方が美味しいし、文章はライターに頼む方が上手く書けるのだ。

といっても、文章作成をライターに依頼したことがない人にとって、「具体的にライターに何ができるのか」が想像できない人も多いと思う。

なので、近いうち(2〜3週間以内)に、服について語るためにライターにできるであろうことを記事にしてまとめたいと考えている。

興味のある人は僕のInstagramのアカウントをフォローしてもらえれば、ブログ更新のお知らせをするのでぜひ少し待っていていただければと思う。

歴史ある業界を変えるには、あまりにも小さな声かもしれない。でも一人の服好きとして、そして物書きとしてできることがあるなら、やってみたい。

ライターの僕が大好きな服の世界にできること

ここまで偉そうに色々と書いてきたが、今の僕は、結局のところ単なる服好きの一消費者にすぎない。

与えられた商品に対して、気に入るか、気に入らないかを判断して、気に入ればお金を出す。それだけの存在だ。

でもここ3年ほど、数百万円を服飾品に使ってきて感じているのは、「刺激的な服」「面白いファッション」が静かに終わりに向かいつつあるということだ。

そんな状況で「わかる人だけがわかればいい」という態度を貫けば、本当に終わってしまう。

道具としての服、他人のためのファッションばかりが溢れ、僕が大好きな服の世界は今よりもっと小さな、限られたコミュニティにしか残らなくなる。

あまりにももったいない。伝えれば、届ければ、きっとわかってくれる人はたくさんいる。

だから僕はもっと伝えたい。僕が大好きな服の世界の面白さを、よりたくさんの人に知ってもらうために。

単なる消費者で、しかしライターの僕ができるのは多分それだけだ。